想像力を必要とするのは誰か。
他人との会話は、億劫だと感じる。
しばしば理解度の違いによって、誤解を生み出してしまうことがあるから。
その結果、相手に対して、この人面倒くさいなぁとか理解不能だとか、マイナスのイメージがついてしまうことも珍しくないと思う。
かくいう私は、相手に対して、会話の中で与える情報量が絶対的に少なかった方だと思います。からして、頻繁に誤解を生んでいた。(に違いない)
どうして与える情報量が少ないのかと言うと、圧倒的に相手に対する依存心理だと思われる。(専門家ではないのであくまで個人的推測)
例えば、私は友人に、面白いと思った話を、同じように面白いと思って欲しいと思って話す。
良くも悪くも、私はその友人を信頼し切っている。(問題なのはここ。)
そこで、自分が伝えたいことだけ捲し立てて話しておきながら、その「行間」を埋めるような伝え方にはなっておらず、あとは私を知ってくれている友人の受け取り方に任せてしまっている部分が多い。
ここでめんどくさいのが!、友人の受け取り方という部分において、
「ご勝手にどうぞ」ではなく、
「私という人間のことを知ってくれているでしょう?
であれば、私がどういうニュアンスで面白いと思ったかわかるよね?」という
心底身勝手な人任せなのです。
書いていて、自分でも呆れてしまいます。笑
けれどこれ、意外と結構やってしまってないでしょうか。
特に家族間であれば、ありがちな事かもしれないとも思う。子供が親に対して、親なら分かってくれると思って感じたことだけで会話をしているとか、姉妹で楽しい会話をするときにシンパシーみたいなもので通じ合える分、いろんなものを端折ってしまっているとか。
まぁそれは家族だからこそ成り立つし、何かあってもそれほどのしこりが残ることもないと思う。
でも、他人同士であれば、そうもいかないから気をつけたいなぁと思う。
その反省点から、最近では相手が自分の言葉を聞いて、
ちゃんと私が伝えたいことが想像できるかということまで
考えながら話すようにしている。
想像力を働かすって、会話において実は発信する側にとって大事なことなのかも。