日々の暮らしのこと-mico

いろんなことを感じます。そのまま文字にします。

核心はついてると思う。

 

毎日毎日やる気が起きず、朝起きた時は死ぬほどツラい。

少し前の私なら、朝が大好きで、早起きも大好きで、快活に目が覚めていたはず。

そんな私はどこへ行ってしまったのでしょうか。と、本気で聞きたいくらい、その時の自分に久しく出会っていません。

仕事中も、席に座ると一切立ち上がる気力がなく、自席で仕事をどうにか見つけながら過ごしていたりする。でも大半は本当に何もする気力がなくて、ぼーっとしている。(毎日周りの方に申し訳なくなる)

休みの日も全く外に出られないほどではないが、以前のように、一人でどこかに行って写真でも撮ってこようかな♪という気持ちにはなれず、これまた体が鉛のように重い。

だから本当なら一日中、家から一歩も動きたくないのだが、私の心がそれを拒んでいる。土日をそうして過ごしてしまっては、本当に人間が終わる気がするのだ。なので、せめて外に出るだけでも頑張ろうと、車で40〜50分の実家へドライブしてみたりしてる。でもそれもまたひどく疲れる。そのくらいのドライブでヘトヘトになることなんかなかったのに、何でどうしてこんなにも体が動かなくなるのか、いつも不思議で仕方ない。

ドライブでこんなにヘトヘトになるのだから、人と話をするなんてことは、自殺行為だ。家に帰ったら、一歩も動けなくなる。自分が情けなくなって、消えてしまいたいと思う。

あと、いつも何かの感情によるものなのか、涙腺に涙が寸止まりしている。きっかけがあれば、いつも泣いてしまう。いい大人がいつもメソメソして情けないなぁと思う。

 

どうしてこうなったのか。

毎日毎日、重ーい黒ーいものがみぞおちの辺りに鎮座していて、笑顔もでない。

 

親に心配かけている自分が許せなかったり、自分の理想の自分になれなくて悔しくて自分が嫌いだったり、周りと比べてばっかりで自分が何者なのかもう分からなくなっていたり。

 

突き詰めていくと、いつも思うことが一つある。

私はありのままの自分を誰かにそのまま受け止めてほしい。

親には、良い子でいないといけないと思って、いつも気を張っていたし、心配かけないように良い子の発言しなきゃと本音を言ったことがない。本音やありのままの私を見せても、気に留めてもらえないし、逆に愛してもらえないと思っていたから。下に2人兄弟がいて、両親の関心や視線は、常に下の子に向けられていたなぁ。子供の自分はいつも両親に見て欲しい・認めて欲しいという焦りに近い思いでいっぱいだったと思う。

 

そう言えばこんなことがあったなぁ。

まだ小学校低学年ぐらいの時。我が家に友達が来て遊んでいた時のこと。ひょんな会話から、友達のことばに母親が味方して、私の味方をしてくれなみたいな場面。幼かった私は、お母さんに味方してもらえなかったのが悔しくて、台所の包丁を持って、死ぬよ!!って母親と友達に向かって言ったのだ。でも母親も友達も半分笑いながらそれをやり過ごした。私は大袈裟な事態にならなかったことと、笑って誤魔化されたという悔しさとで、感情がごちゃ混ぜになった。その後は何事もなかったかのようにその日は終わったと思うが、時々ふとこの出来事を思い出す。

あの時、自分は心の底からお母さんを求めていたんだろうなぁって思います。どうしてあの時の私の気持ちをもっと汲み取ってくれなかったのって。(小学生が包丁持って死ぬよって・・・やばいよね笑)

今になって、自分の求めていたもの、今現在満たされていないものに気づいて愕然としています。もっと早く素直に求められていたらなぁ。

 

自分がどう思っているとかの心のうちを親に話すようになったのは、つい最近のこと。聞いてもらうというよりかは、大人同士の意見交換の中でだと思うけど。

心理学的に、それが親でないといけないということがあるのかな?

恋人や配偶者や友人(いわゆる他人)でも、成り立つことなのでしょうか?

私はありのままを受け止めてもらえる人がいるとは、今のところ到底思えていない。そんなことあり得るのか!?レベル。だから、自分の存在価値や存在意義が未だに分からないのかもしれない。