思うことをぽつぽつと。
いやはや、昨日は急激な落ち込みで何もできなくなってしまった。
(という割には、帰ってからキムチ鍋をしたw)
今日ふと、あるお弁当の写真をみたときにさくらんぼが入っているのをみて、思った。
私の中のさくらんぼといえば、缶入りのしわしわのやつだなぁと。
でも大人になって知ったさくらんぼは、もっとたくさんの種類があった。
山形県で有名な佐藤錦なんか、作り物か!!と思うほど綺麗だし。
どす黒い色のアメリカンチェリーとかもあるよね。
でもやっぱり私にとってさくらんぼは、缶の中のシロップでしわくちゃやわやわになった、あの小さな粒なんだな。今思うと、体に悪そうな不自然な色をしているよね。
なんであれなのか考えてみた。
安く手に入るからだ。
小さい頃の貧乏我が家にしてみれば、さくらんぼは果物屋さんで買える代物ではなかっただろうし、缶入りのシロップ漬けで満足だった。あれが好きだったのだと思う。すっごい甘いし。
母さんが、同じく缶入りのみかんやパインを使って、フルーツポンチやあんみつを作ってくれたなぁ。
その中でもさくらんぼはやっぱり少し特別な存在だった〜。
さくらんぼが入ったあんみつのカップが回ってこないかなと、いつも意識していたような笑
と、懐かしさに浸ってみました〜。
お昼前に急激に空腹を感じた。
でも今日はお弁当を注文した。
だから、
お腹すいたけど美味しいお弁当があるのでつまみ食いはしない。
そう決めた。
どうしてこう、人の作ってくれたものは美味しく感じるんだろう。私は主婦ではないけど、一人暮らし歴長いので、自分で作っては食べて片付けてを繰り返している。だからその味気のないことに辟易している。
主婦ならさ、まだよくない?食べてくれる人がいるから、自分は美味しくなくても、誰かしらの何かしらの反応があるから。(いや、期待していて何もない時はそれはそれでツラいんだろうけど)
というわけで、お昼ご飯が楽しみなのでした(これは午前中に書いています)
今日は朝から絶不調だと思っていたのに、意に反して非常に調子良さそうに振る舞えているのが不思議でならない。
職場の人間たちとも、人間らしく話すことができているようだし、それによって私の中にどす黒い気持ちが渦巻くこともない。しかも、朝イチで一番苦手な上司からの電話をとってしまって(親電にかけてきた)一瞬生命が荒れ狂ったが、頼まれごとの運びもスムーズで挙げ句の果てに(使い方間違ってる)戻ってきたときに、みんなの前でお礼を言われてしまった。ほぉーん。
その他にも、気持ちはかなり落ち込んでいるのでもう体も動かないかと思っていたのに、意外と動くなぁということがあった。いつもこれなら周りに迷惑や心配かけなくていいのにと思う。
週明けの月曜火曜が憂鬱すぎて死亡してる。
月曜午後と火曜午前を作業で押さえられて身動きが取れずなのに、月末関係の支払いに銀行へ行かないといけなかったり、火曜の午後は3時間ぐらい座学で研修があるため、睡魔とも戦わないといけないと思われる。
好きなことができないため、死亡(仕事の考え方を改めろ)
明日の先輩とのランチも楽しみにしていたのに、少し憂鬱。
ずっと会おうと言っていたので、なんか勢いで先輩に連絡してみたが、今になって、少ししんどいと思い始めている。原因は様々。間違っても先輩がいやということではない。
ランチした後に、仕事関係で1時間半かけて隣の隣の市まで出かけて、帰りが夜10時ごろになるし、翌日日曜日も同じく仕事関係で立ちっぱなし。
こんな気持ちのままではいけないのだろうが、今のところ、自分の気持ちに正直に説明すると、憂鬱の2字であーる。
でもせっかくこんな私とランチして、もう一人の先輩の結婚祝いを選びに買い物をするので、少しでも楽しい気持ちで出かけたいと思う。
私のこの憂鬱はいったいどこから湧き出てきているのか。
分からない。以上。
自分が何者でもないという虚無感、恐怖感。
昨日やったかな。ふと、自分がこれまで自分だと思っていたものがなくなった今、これからの目標もないし、誰かと生きていこうという希望もない。そんな自分がなんの価値もないようにしか思えず、虚無感に襲われた。ほんと、急に。飲み込まれていく感覚。ブラックホールに飲み込まれるような(飲み込まれたこともないし、見た事もないけど)、自分がフワーッとチリとか霧みたいになって、蒸発みたいに消えていくような。
多分やけど、それが漠然として憂鬱感とか不安感の正体なのかもしれん。
これから先のやりたいことも何にもなくて、やることも立場もない仕事に来て、毎月それなりのお給料をいただきながら漫然と過ごす日々。で、いいのかどうかも判断つかず
それこそ、毎日なんのために生きているのかと思う。
仕事をして給料をいただくのは自分のためかもしれないけど、じゃあ自分はなんのために生きているのだろうか
そうなると、仕事してお給料をいただくのもなんのためにいただいているのか
ただ漫然と生きている自分のために使うためにもらっているとしたら、これほど馬鹿らしいことはないと思う
単純にお金の無駄遣いだと思うし、私が生きているだけで様々なものを消費してしまうので環境に悪い。
と、ここまで考えたところで、自分のことをここまでゴミ同然に思っているけど、自分大丈夫そ?と思った。
別に悲観的にそう思っているわけでも、被害者意識的に同情を誘いたいためでも、感情的になっているわけでもなくて、本当にそう思うのだよ。
そう、ただ漫然と生きているだけの自分。
この日々になんの意味があって、価値があるんだろうか。
今こそ、心の底からその問いに向き合えそうな気がする。
答えは死ぬ寸前まで出ないんだろうけど。
自分はやっぱり、誰かのために生きて動いていることが好きなのだろうか?
でも誰かの幸せに責任を持つって、私の周りにいるようなすごい人たち(境涯や心の器の広い人たちのこと)ができることであって、私にはまだまだそういう余裕がないと思っているから、なんか違う気がする。
まぁでも少なくとも、誰かのために動いて自分の価値を意義づけるためには、自分にとってはいいんだろうね。