日々の暮らしのこと-mico

いろんなことを感じます。そのまま文字にします。

めくる誰かの手を想像しながら。

昨晩、友人から連絡があった。

どうしたんだろうと緊張しながらLINEのトークルームを開けてみると、とても嬉しい内容だった。

 

昨年、夏から年末にかけて、私の友人・知人に、手作りの日めくりカレンダーをプレゼントした。そして、彼女もそのうちの一人だった。

カレンダーに書いてある内容は自分の言葉ではない。だけど、みなさんが喜んでくれること間違いなしのものにした。

そのほかの、文字のフォントや全体のデザインは、ネットの無料素材を組み合わせながら、私のセンス全開で作ってみた。

ただ、センスと言ったって、趣味の範囲を超えないものだし、なんせ31枚分あるのに、全てのデザインを違うものにしたから、途中から投げ出しそうになるのを必死に我慢して、途中から若干飽きとの戦いになった時もあった。

 

無事出来上がった卓上カレンダー状のそれは、手作りにしては自分でも驚くほどの出来になり、迷惑にならないかと心配な気持ちもあったが、押し付けではなく、「こんなの作ってみたから、邪魔じゃなかったら使って〜」という軽いノリで渡し歩いていった。

 

実は当初から、日めくりカレンダー作りは一つのツールみたいなもので、本当の目的は友人たちに会いに行くことだった。

これを渡しにいくんだと思えば、少し重たい足も動いてくれるし、ただ単に話して終わりじゃなくて、”ほんの気持ちですが”ぐらいのプレゼントを持参する方が、来られる側も気持ちが軽いかと思ったのだ。トークのネタにもなる。

 

そうしてその友人に渡していた日めくりカレンダーは、どうやら無事、彼女の実家で役目を果たしてくれているようだった。

というのも、彼女の家族の方からも、その日めくりカレンダーが大好評という。

彼女のお父さんは、その日めくりカレンダーをそのまた友人に写メして送ることもあるというから驚いた。どうやら病気をしている友人らしく、励ましたいとの思いかららしい。仏や。

 

それを教えてもらった私は、本当にびっくりした。

自分が丹精込めて作ったものを、ここまで大事に使ってくれているなんて。しかも、第三者の方を勇気づけるためにも使っていただいていたなんて。

これまでになかった経験だった。必要としてもらえることが嬉しかった。

 

内容は自分のものではないけど、形はまるまる0から作り上げたものだ。

エクセルで細かい調整をしながら出力しては調整し、また出力しては調整し、なんて作業を繰り返しやった。

大きさもあんまり大きいと家や部屋の雰囲気の邪魔になったら嫌だから、できるだけミニマムにしようとか、台紙やリングはお金はかけられないけど、あんまりちゃっちいものだとみんなにいらないって思わせてもいけないなとか。

デザインも、自分の好きな感じでもあるけど、もっと普遍的でみんなが心癒されるような風にできないかなぁとか、何度も作り直した。

この日めくりカレンダーを渡す友人一人一人の顔を思い浮かべながら、「これをどんな時にめくってくれるかなぁ」とか、「あの子はこの言葉、喜んでくれるかなぁ」とか考えながら作っていたのだ。

 

そうやって作り上げたものを、こんな風にして大事に楽しみに使ってくれているなんて、今まで感じたことのない感情が込み上げてくる。

自分が必要とされているかのような錯覚さえしてしまう。

 

でももし、私がもっとプロに近い完成度でものを作ることができて、それを誰かのために贈ることができるなら、更にそれを喜んでもらえるなら、こんな嬉しい事はないなと考えた。

 

それがなんなのかは全く明確ではないけれど。

ものづくりは、自分に向いていると思うけど、だからと言って何を作りたいという具体的なビジョンはない。残念ながら。

ただ、一人で好きなことを黙々と何時間でもやるのが好きなのだ。

早く、そんなふうに没頭できるものがなんなのか、見つけたいと、いつも以上に強く思った出来事なのでした。