日々の暮らしのこと-mico

いろんなことを感じます。そのまま文字にします。

これでいいのだ。

 

昨日、友人の結婚式に行ってきた。

私と同い年の友人は、年下の男性に見初められ、人生を共にすることを決めたそうな。正装した彼女はとても美しかった。いつも剽軽な彼女が少し緊張した顔をしていた。

数日前に一言「元気?」と連絡をしたとき、電話をかけてきてくれた。その時に今回の結婚式に招待してくれた。そんな友人の姿を、くすぐったいような寂しいような、独身をずるずると続けている私は、複雑な心境で眺めていた。

 

その式には、別の友人夫婦も来ていた。その夫妻とは、別の共通の友人の結婚式でも会っている。その二人から、「どうしていつまでも結婚しないんだろう」とか、「あの人こうして他人の結婚式にばかり出ているなぁ」とか、思われているのではと、被害妄想が広がってしまった。

 

他人の目から見られているであろう自分、という形で自分を客観的に見る。そんな客観視あるか?と思われそうだけど、私はよくやる。そうしているうちに、なんだかものすごく惨めな気持ちにもなったけど、比較的心軽やかだった。なぜかというと、”私は今、きちんと歩むべき道を着々と歩んでいる”という確信があるからだ。

逃げも隠れもせず、目の前の道(課題ともいう)を着実に歩んでいるという感覚は、私の人生において、何よりの自信になっている。

現に、日常の環境はさして変わっていないけど、以前に比べて心が揺れにくくなった。誰を見ても、どんな行動を見せられても、私は自分自身がやるべき目の前のことを地道にやるだけだなのだ。”私は自分の道を歩いている”という自信が、これほど心を安定させてくれるとは。”今、自分はこれでいいのだ”、と大確信で言える。(バカボンのパパの言葉がこれほど自分の心を突き刺そうとは思っても見なかった)

 

つい最近まで、他人の言葉や行動や目の動きや表情にまで影響されていた。少しでも表情が固くなると言葉に詰まったし、相手が何かを発言するたびに自分の言葉はぶっ飛んで相手主導の会話になっていたし、目の動きが普通でないだけで動揺してその真理を探ろうとするあまり会話がままならなくなってしまっていた。

その結果、自分のやりたいこと、やるべきこと、達成していなければならなかったことなどなど、蔑ろにしてしてきてしまった。そしていつも人の目を気にして生きる癖もついてしまった。結果(どれが”始まり”なのかも、もうわからないけど)、誰々が言ったからやったのにうまくいかなかったと責任転嫁するばかりになり、誰かの応援や後押しや賛成がないと前に進めないようになり、右ならえの習性がついて一人だけだと不安になるようになり、、いいことなんてひとつもなかった。

それゆえ、いつも人の真似をして生きてきたから、気づいたら根無草になっていた。例えば、Aさんに言われたからと「◯」にして、その後Bさんに強く言われたからと「▲」に変えて、更にCさんに優しく諭されたので「□」にしたり、そんな具合に。

そんな自分を一番理解した上で、だけど一番嫌っていたのは、紛れもなく自分自身だった。可哀想なことに。たった一人の自分が、自分自身を守ってあげられていなかった。

 

それが今は違う。そりゃ劇的に人間が変わることはないけど、少しずつ日々の過ごし方や心の動き方が違ってきていることに喜びを感じる。ささやかだけど。それこそが、確実に自分に起きている変化の証明のように感じる。

 

誰に評価されなくても、自分で決めた道を毎日数歩ずつでも一歩ずつでも進み続ける。誰も見ていないところで努力できる人が本物なんだ。私の人生、一度くらい本物になってみたっていいじゃない。これまで一度も純粋に自分のために生きたことないから。絶対にその先に、見たことない景色が広がっているという確信もしている。それまでどれぐらいかかるかわからないけど、このトンネルを絶対に抜けてみせる!