「もしも」で振り返るナイーブな過去の話。
もしも、というのはすごく便利な言葉だなと思う。
時として、到底あり得ない夢のような出来事に当てはめてみて、嬉しい・楽しい・最高な気分を想像してみたりする。
だけど、現実は現実。
英語だって、しゃべれるはずもない。
『もしも』もへったくれもない。
大学4年生の時の、就活の集団面接でのこと。
「これまで読んだ本の感想を英語で教えてください」と言われた。
面接に際して、さして英語を勉強してきたわけではなかった私はパニクった。
でもパニクって焦っている私を置いてけぼりにするかのように、順番はどんどん巡っていく。みんなそれなりに簡単な英語でちゃんと答えてるし、あの時間はほんと死刑宣告でも待つような時間だったと思う。
自分の番が迫れば迫るほど、頭の中はまとまらず、ついに指名をされたときには、完全なるカオスと化していた。
無事、面接会場を凍りつかせるほどの稚拙な英語力を披露?した後のことは、全く覚えていない。顔から火が出そう、というのは比喩ではないのではと思うほど、恥ずかしさで震えていたんじゃなかったかな。
自分がしどろもどろで知っている単語を並べている最中、隣にいた大学の友人が思わず「・・・mico何言ってんの・・?」と苦笑いで発言してしまうほどの英語力だった。普通、面接中に人が喋っているときに発言しないよね?でも友人は、思わずその場で自分がツッコミを入れなければと思うほどの会場の雰囲気だったようで、私はそれほどわけのわからないことを言ってしまっていたみたい。
というわけで、そんな『もしも』は正直考えるのもしんどい。
トラウマというやつだろうか。
だけど、せっかくだし、自分が英語が話せたとしたら日常がどんな感じになるか考えてみた。
考えてみたが、やはりよくわからなかった。
理想を言えば、他国で生まれ育った同世代の友人といろんな話ができるとか、時事問題について意見交換をして価値観を共有するとか、そうすることによって自分の人生がより豊かになるとか、前向きなそれらしい成果は浮かんではくる。
でもそれは果たして私にも同じように当てはまるのだろうか、と考えた。
私は生まれてこの方、日本という国を出たことがない。今時珍しいと思うが。
大学で留学生と交流したとか、身近に外国の知人がいるとかいうこともない。
つまり、日本人と話すときの感覚しか経験がないのだ。
だからもしもを考えて想像してみようにも、かなり難しい。
想像がつかないということになる。
結局、今のところ私にとって、もしも英語が話せたらはありえない笑。
こんな逆説的なお題ブログも、ときにはありだろう。