日々の暮らしのこと-mico

いろんなことを感じます。そのまま文字にします。

昔の記憶。1

 

なかったことにしたい記憶っていうのが甦る瞬間がある。

 

小さい頃、幼馴染の友人たちと遊んでいた時、学校の友達との関係、部活の出来事、親との会話、兄弟喧嘩、元彼との関係、祖父母との交流、、、などなど。

 

強烈な後悔やモヤっとした気持ちや悲しかった記憶が、それと同じくらい強く、『やり直したい』という気持ちとなって押し寄せる瞬間。文字通り『押し寄せる』感覚がある。そのいやぁ〜な気持ちや記憶に自分がまるまる飲み込まれてしまう感覚。

なす術もなく、その気持ちの中に閉じ込められてしまい、取り返しがつかない、変えようのない過去なのだと、嫌でも思い知らされてしまう。

 

例えば、まだ小学校低学年か中学年かぐらいの時の話。

私たち家族が住んでいた団地の敷地内には公園があった。

夕方になるとたくさんの子供たちとその親御さんで賑わうところだ。

今ではなかなか見られない光景になってしまったけど。

当時その団地には、本当に多くの私と同世代の子供を含む家族が住んでいて、全部で3棟あったけど、おそらく半分以上はそうだったんじゃないかなと思う。

 

その日私は、1人で公園で時間を潰すようにして遊んでいた。

ふと、公園の出口に連なるフェンスの前にあるシーソーが目に入り、これに乗って歩いて、降りたときにフェンスに飛び乗ろうと考えついた。

今思えば、そういう突拍子もないことをして目立ちたかったのかもしれない。こういうところは本当に小さい頃から変わっていなくて呆れる。紛れもなく愛着障害の典型な気がするんだけど。

いざ、勢いをつけてフェンスに見事飛び乗った!・・のだけど、その後ろで何かが勢いよく落ちる音。「ガチャーン!!」

確認するまでもなく、それは私が飛んだシーソーの、隣にある同じ形をしたシーソーに置いてあった砂場遊びの道具かなんかで、小さい子供がそこに置いておいていたものみたいだった。だけど、私がシーソーを体重ごと思いっきり降ろしたときに、隣のシーソーに振動が伝わってしまったため、その衝撃で落ちてしまった。

・・・という状況が、振り返らずともフェンスに飛び乗った私は、背中の雰囲気で感じ取れた。起こったことだけでなく、それを見た周りの親子たちの「えっ・・・」という雰囲気もだ。(子供の頃から、そういうことの察しがいい方だった。)

けれど、まだ幼かった私は、その状況で素直に「ごめんなさい」が言えず、周囲から大注目を浴びているなか、後ろを振り向かずに公園を去ったのでした。

 

年齢がまだ1桁台かそこらの時のこの一瞬の出来事なのに、私は大人になった今でも、その時のことを本当によく思い出します。

 

思い出すときはいつも、『あのとき、私のやったことの一部始終を見ていた子供や親はどう思ったのかな』『「◯◯さんちの◯◯ちゃんって、乱暴だし悪いことをしたのに謝りもしないのね」という噂が立ったかな』『あの時、後ろを振り返って自分のやってしまったことを確認し、泣いていたかもしれない子供にちゃんと謝れば、今こんなふうに後悔の嵐に苛まれることはなかったのかな』『あの時はあの時で、全ての大人が怖かったもんね。きっととても怒られると察知して逃げるしか方法が思いつかなかったんだよね』『年下の子の遊び道具を落としておいて、謝らないとか最悪だよなぁ』とか色々思ってしまいます。

 

もちろん、その時に、甘んじて自分のやってしまったことを受け入れ、きちんと怒られていたなら、その時にこのモヤモヤな気持ちを消化できていたかもしれない。

だけど、やはり子供の私にその勇気と誠実さはなく、ただ怒られたくないという感情だけが暴走してしまったんだと思う。

 

と、こんな具合に、もう取り返しのつかないどうしようもないことに対して、1人反省会を行う日々です。

 

他にもたくさんあるので、また思い出したら、ここに書き出したい(吐き出したい)と思います。