めんどくさい生き物
人って、一つのことばに対して、
色々な解釈をするよね。
あるひとには怒りを感じさせたり、
あるひとにはおもしろいと感じさせたり、
またあるひとには意味不明だったり。
発言者の語彙力というのもあるのかもしれないし、
人となりも関係してくるかもしれないけど、
どうしてこうもすれ違ってしまうのだろうかと
途方に暮れる。
それが、どんなに身も心も距離が近いと思っていた人物とだと
余計につらい。
人類とは、今世も来世も打ち解けられないものなのではないかと
本気で思ってしまう。
人間ってめんどくさい。
2023/4/7
今週は、PMSが大暴れ!!!
あまりのつらさに、先日1日半も仕事を休んでしまった( ; ; )
生理前に無理をするものではないと本気で悟った。
楽しくてもそれは自殺行為になると自覚すべきだった。
本当に気をつけよう。
1日、何もしないで(いや、少し動画は観たな)、
寝れたので、幾分脳みそのモヤが晴れた。
要するに睡眠不足だったのだろうな。
まぁちゃんと寝ても普通の人の数百万倍体調悪いけど。
いろんな人に迷惑をかけて、自分の体調を整えないといけない自分の体が憎い。
いつまでも人の世話にばかりなっている。
情けない気持ちが、どっぷんどっぷんと無限のマグマのように湧いてくる。
(いや、マグマは有限か?)
生きるのって本当大変だと実感するばかり。
先日、先輩とやりとりしていて、いつも素敵だから、本当にすごいなぁと心から感動して、すごいですねぇという意味で褒めちぎっていたら、いつも褒めてくれるから嬉しいよ〜同じように自分にも褒め言葉のシャワーを浴びせてあげたらいいのにねって言われた。
それが出来たら、こんなに悩んでいないし、こんな性格でなければ、敢えて褒め言葉のシャワーを浴びせることも必要ないと思うのだけど。。
でもそうだなと思った。
私には、ごく自然に自分を褒めてあげられるスキルが絶望的にないのだと思う。
それでも今朝、自分で自分のミスを補うというファインプレーがあった。
それを別の知人に話すと、そういう時に自分を褒めてあげるんだよと言われた。
こういう時か!!笑
自分って、自分を褒めてあげることに慣れてない。
だから、人のことは目ざとく良いところを見つけては褒めちぎるくせに、自分のことはそんなのできて当たり前でしょと言わんばかりに、スルーしてしまう。
スルーする癖がついてるなぁって思った。
自分の良いところにも他人にするのと同じように、目ざとくなっていかないと。
一つ勉強になった日でした。
読書記録 ♯1
読書記録。
年の初めに、月2冊、本を読もうと決めてから1月はあっという間に過ぎてしまった。
ぼーっとしていると、気づいて振り返ったときに、本当に空っぽの人生だったというホラーが起こりそうで、ゾッとした。
という訳で、2月に入って、読む読む詐欺だった「土佐堀川」に着手することに。
こちらは言わずと知れた2015年期朝ドラ「あさが来た」の原作。
放映当時は「びっくりぽんや!!」の名台詞が話題になったという記憶ぐらいはあるが、ちゃんと観ていなかったので、詳しい内容はよく知らなかった。
朝ドラが話題にのぼる一方で、原作の小説がとても素晴らしいと、その当時よく聞いていたので、勢いで買うだけ買っておいたのだ。
そもそも、歴史小説を好んで読んだことがなく、難しい漢字や、ながぁ〜い名前に翻弄されて内容が入ってこないのではという勝手な先入観があったので、長い間『読まず嫌い』をしていた。(食わず嫌いならぬ)
それでも今、この作品を自ら手に取ったのは、現在の職場環境や自分自身の身の振り方、これからの生き方に悩んでいるからだろうか。
女というだけで、大した仕事を任せてもらうことがないまま勤続10年を超えた。職場も自分自身もその務め方に疑問を持ったことがなく、振り返ると、10年以上ものこの会社に奉仕して生きてきたが、何が自分に残ったのだろうか、と心底虚しくなった。
自分からもっと求めて働いていれば。
資格試験でもなんでも自分から動けば。
当たり前だと思わず、いろんなことに疑問を持って物事を見ていれば。
自分発の姿勢でいれば、もちろんもう少し違った今があったのかもしれないとは思う。けれど、それをする必要がない、しなくて正解という風潮があったのは本当だ。ほんの数年前までは。(考えてみると、コロナ前までがそういう雰囲気だったように思う)
そして今、目に見えて自分のような中身が空っぽの人間には、何も求められていないということを肌身でひしひしと感じながら、毎日を働いている。
ふと、今の環境に囚われずに気楽に考えてみた。自分とはこうだっただろうか?本当にやりたいことはなかったか?もっと生き生きと生活していなかったか?と。すると、今までどこかに封じ込められていた気持ちが、溢れ出てくるのを感じた。
今なら、なんでもできるんじゃないか?もう失うものはないのだし、ダメで元々で何かやってみようか。
そしてそれは少し楽しかった。
長くなったが、そういう経緯で、女性の社会進出についてということや、女性が果たす社会的役割について、自分ごととして初めて追及してみたくなったのだ。
「土佐堀川」に描かれている広岡浅子の一生の、果たして何がそんなにすごかったのか、どうしても知りたくなり、ページをめくってみた。
あくまでも個人の所感なので、拙い感想には目を瞑ってほしい。笑
何より一番グサッと刺さったのは、広岡浅子が『行動第一』『現場主義』の人間だったことだ。
そうは言っても、本もかなり好きで多くの書物も読んでいたようだが、浅子のすごいところは、頭でっかちに知識を得るだけに留まらず、常にそれを実践に変え、更に利益に結びつけていったところだと思う。
まず動く。
商売に必要なことは、自分の目で見て確かめる。大賑わい?の米市場に女二人で平然と乗り込んで罵倒されながらその様子を物見していたところなど、物凄いと思う。
それがどんなに男社会の中でも、堂々と踏み込んでいく度胸は、読んでいて清々しかった。
当時はまだ明治初期。明治維新によって、時代が大きく変わる時だったとは言え、まだまだ女が商売のど真ん中にいることなんて考えられないような時代だったはず。今だってまだ、この会社の女性役員は何割で〜とか数値化されて話題にされるような世の中なのにだ。
しかし浅子は、はっきりとした目的のためにいつも堂々と正論を掲げながら、その世の中の理不尽さに立ち向かっていった。こういう時、女性の正義感というものはすごい力を発揮するのだなと思う。
また、浅子の視野は日本や世界に向かっていたことにも、本当に驚かされた。
浅子はいつも、自分の利益を得るために奔走したのではなかった。嫁ぎ先の両替商が軌道に乗るため、大阪関西一円の商業発展のため、日本の未来のため。
むしろその視野の広さ、志の大きさがあったればこその浅子の一生だったとも言えると思う。
人間、自分のことや目先のことだけに囚われているうちは、結局ことはうまく運ばないのだ。大願に立って動くからこそ、浅子の前にはいつも大きく道が開けていったのだと強く思った。
素晴らしい人の一生を読んだからといって、自分がすぐにこんな偉人と同じように振る舞えるようになる訳ではないが、希望は湧いた。
そしてほんの少し、未来が楽しみになった。
久しぶりにいい本に出会えたことで、毎日に張りが出たように思う。
まずは私も、本の虫にならず、行動の年にしてみようかと思う。
誰にも言わない私の。
今週のお題「日記、どうやって書いてる?」
今年も残すところ半月!ぼぉっとしていたら、12月が中旬だった。年齢重ねると、時間の経過が早いっていうけど、私だけ特に時の流れが早いのではと本気で思う。ちなみに多くの人がそう感じるのは、大人になるにつれて、『感動や驚き』が少なくなるからだそう。これはなるほどと思った。日常を振り返っても、「えぇっ!!すごぉーい!!」とか、「へぇぇぇ〜!そうなんだぁ( ゚д゚)」みたいな反応を示した記憶があまりない。子供の時は、生きてるだけで、毎日が発見と感動の連続だったんだもんねぇ。そりゃ楽しいし、毎日が充実してるわな。改めて大人って、悲しい生き物だよな。(生き物としては一緒)
話を元に戻して、なぜ『あっという間だった〜』と嘆いているかというと、スケジュール帳に原因がある。私の手帳はダイアリー機能がついたものになっていて、その日1日のことが6行ほどのスペースに書けるようになっている。スケジュール帳として毎日持ち歩いているので、空いた時間に昨日のことを思い出して書ける。つまり、あまり物事を続ける習慣のない私でも、忘れずに継続することができるのだ〜。スペースが小さいのに、文章をまとめる能力が低くて書きたいこともたくさんある私。それはもう豆粒以下の小さな文字で書き連ねています。でもそんな文字たちが集合しているダイアリースペースは嫌いじゃなくて、後から見直すとすごく充実感で満たされる。「続いてる♪続いてる♪」「続けられてる私偉い♪」と、自己肯定感が上がるから嬉しい。そしていやでも今の手帳に書かれている1年前の記録を目にしてしまうのだ。
でも今年は、昨年その日記をつけ始めた時の記憶が妙に新しいから本当に嫌になる。あの時、こんな気持ちで書いていたなとか、そんなことまで記憶がある。この1年、何か自分に変化があったかと言われると、ない。時だけがこうも早く進むことに、焦りや悔しさや悲しさや諦めを感じてしまう。
でも変わっていないのは客観的に見た時の私の状況だ、と気づく。こんな自分でも、内面では人生でこれほどもがいた事はないというほどもがいたし、こんなに自分を見つめた事ないというほど見つめた1年だった。そして、誰にも分からない歩幅で、何歩かは前に進んだというものもある。絶対に誰にもわからないだろうけど。そういう誰にも分かり得ない私の微々たる変化が、この日記帳には記されている。自分にしかわからない苦しみと痛みとを伴った、小さくて小さくて忘れられてしまいそうなそんな変化だ。 自分にこれといった取り柄ややりたいことがない私にとって、日記をつけることは唯一、自分の発露でやり始めた好きなこと。来年のスケジュール帳も同じようにダイアリーのついたものを手に取った。
見える景色が変わったら。
ブログを書く習慣が付いて、気がついたことがある。
日々の生活の中からネタを探すために、記憶を遡る。
そうすると、日常の一コマ一コマに対して、あまりにもネガティブな感情しか抱いていないのだ。
あの人がルールを守ってなくて、なんかモヤッとしたな、とか。
苦手なあの子のあの発言に傷ついたな、とか。
自分の自己肯定感の低さに情けなくなったな、とか。
エピソードはあるにしても、内容はネガティブ。
誰かや自分を悪く思っている印象しかない。
あぁ。。
これではいけない。
これは文章を書きたい以前の問題だ。
根っからの問題だ。
ベースがこんなにネガティブだったら、日常の素敵な情景を拾えるはずがない。
もっと自然に目に入るもの、耳にすることが、全て誰かの心を和ませられるような、肌寒い日の日向にいる時のようなものでありたい。
本当に由々しき問題。
さて、なぜそんなことを思ったのかと申しますと。
今日、こんなことがあった。
私が愛してやまないネット販売専門の雑貨屋さんがある。
専用サイトには、たくさんの読み物もあって、素敵な文章が読みたい放題!
私は時間を見つけては、過去に遡ってそれらを読み漁る毎日。本当に毎日。
どれも素敵だし、どの文章からも、平凡などこにでもある空気感をまといながら、その中に洗練され研ぎ澄まされたセンスを感じる。まじでかっこいい!!!
そして昨日、いつものごとくそれらを読んでいたところ、とてつもなく素敵な文章に出会った。殺伐とした日々の中、まるで私に対する励ましのような内容に、この感想をぜひお伝えしたい!と思いながら、ページを一番下までスクロールすると、なんと感想を送れるフォームがあるではないか!!(興奮)
「ここここの文章を書いた方に、直接感想をお伝えできるかもしれない!!」と、早速震える手で入力して送信。
読んだ感想と感じたことの全てをどうにかまとめて送ることのできた達成感に満足して私の中では終了していた。(自己満)
すると。
本日、メールにお返事が届いたのです!!
なんと、例の文章の書き手の方と、嬉しく拝見しました、、とのこと!!!
うわーーーーー!!!
これだけでも感動なのに、私の書いた内容にも触れてくださっていて、更に褒めてくださっている!!( ;∀;)
一人でニヤけた。
特に感動したのは、やはりその文章の雰囲気。
個人に宛てた何気ないメールの文章のはずなのに、もうエッセイみたい。
一番感じたのは、誰も傷つけない言葉の紡ぎ方だろうか。
顔も知らない見ず知らずの読者に対して、これでもかというほどの温かい言葉で紡ぎ出された文章だった。
メールを下さった方の人となりが伝わってきたし、ひいてはやはりこの会社の空気感が肌で感じられた瞬間だった。
(実は本気で転職試験受けようかと考えている)
こんなふうに何気ない文章でも自然と人の心を温められる人になりたい。
そう思って日常の風景を眺めるところから初めてみようか。
そうして初めて、そんな素敵な文章の書き手になれるのかなと思った出来事でした。
スイッチひとつ。
今日、日刊の新聞に、夏井いつきさんの記事が掲載されていた。
あのプレバトでお馴染みの、夏井先生だ。
いわゆるインタビュー記事ではなく、取材に来た記者が、逆に俳句の指南を受けるという、一風変わった取材内容だった。そんな記事の冒頭に引き込まれた。
私は、文章は描くのも読むのも好きだけど、俳句や詩歌などは、どうしても難しく感じて、目の前にすると、つい足踏みしてしまう。
正直、記者に厳しくもユーモラスに指導する内容の記事は楽しく読めたが、俳句とはこう作るものだという部分の内容はよく分からなかった。
ただ、共感をするところもあった。
「俳句のタネを拾う気持ちで暮らせば、景色が全部ありがたいもの、楽しいものに見える。単純な話なんですよ。俳句をやり出すと、全てがタネになって、人生から退屈がなくなりますよ」
文章にも言えるのではないかと思った。
エッセイなどは特に、日常の切り取りのようなものだと思う。
忙しい毎日の中では、気に留めないようなことが、ひとたび文章にしてみれば、他人からの共感や感動や賛美の対象になることもあるだろうし、書いた本人もなんでもない退屈な日常の景色が違って見えてくる。
人って、瞬間瞬間に感じたことを、次の瞬間には忘れている。
せっかく面白いことや、普段感じないことを思ったのにだ。
もしも、それらを全部覚えていることができたなら、壮大なエッセイ集ができるだろう。
毎日毎日、同じルーティンの生活をしている人だって、全く同じ毎日を送れる人はいないと思う。生きていれば変化があるし、家族がいれば少なからずいろんな影響を受ける。
その些細な変化の中に、どれほどのエピソードが含まれているだろう。
朝の出勤時に、いつもは会わない人にあった。
その人が風変わりな帽子を被っていた。
どんな人なのだろうと想像が膨らんで楽しくなった。
もうそれだけで、面白い文章がかけてしまいそうだ。
退屈な日々を一瞬で変化させる方法は、案外自分の中のスイッチひとつなのかもしれない。
近況。
先週、お休み三昧の日々だった。
だけど、せっかくの休みも1日中何もせずに寝て過ごすことがほとんど。
それはそれは見事にずっと寝ていられた。
寝るのにも体力がいると言われるけど、年齢にしては近年稀に見るほど寝続けた。
あとは、アニメ鑑賞。
ワンピースもゆっくりゆっくり見進めているけど、他のアニメにもハマり、それらを鑑賞することに大忙しだった。(アニメって観たいの重なると、超忙しくなるのなんで?)
きちんと体のメンテナンスもしようと思ったのも、この連休中だ。
8月頭ぐらいに、急激な激しい胸の痛みがあった。
健康診断では万年、脂質異常の警告あり。
その後、呼吸がしづらい症状もあり、看護師をしている母親の勧めもあって、病院を受診することにした。
しかしだ。このご時世、病院がらみで一悶着あるのが普通なのか。
ネット予約して、開院時間に合わせてわざわざ病院へ向かい、朝日がギンギンに照る日向の駐車場で待っていると、病院の受付から電話が。
「あ、ちょっと先生に代わりますね」
「は?はぁ。」
「あ、もしもし?ちょっと今日ね、濃厚接触者が出てね、はっきり言ってうちでは(診るのは)無理ですね。他の病院で診てもらってください。」
「・・・(言葉も出ない)」
その後、申し訳程度に他の病院を紹介してもらったが、もうそれ以上は労力を割く気になれなかったのと、せっかくの夏休みの1日分をこれ以上削りたくないのとで、病院は諦めることに。
1時間も待たせた挙句、無理とか・・・。もう文句も出てこんぐらいびっくりしたよ。
でも病院も火の車だもんね。今。わたしなんかには想像を絶するような激務でてんやわんやしているんだろうな。何も言うまい。
と言うわけで、ならば自分で健康管理をしようと、まずは食生活の見直し。
野菜や海藻類、青光りする系の魚を意識して摂取。
そして、なんといっても水分量。水2リットル摂取生活を始めた。
それから朝晩のリンパマッサージと週1のヨガ。まだウォーキングまでは手が出せていません。本当は体をきちんと動かしたいんだけどな。
劇的に変わったのは、水分摂取し始めてから。
夏に頻発していた頭痛と吐き気が無くなった!!単純に脱水してたんやな笑。
リンパはまだ始めて数日なので、2週間ぐらいは続けてみたい。
体型にも変化があるかもしれないし、楽しみにしてやっている。
朝は凝り固まった体をほぐして体が目覚めていく過程が気持ちいし、夜はマッサージするうちにふわふわと眠くなっていって、入眠がスムーズだし、最高。
これぞ夏!と言うようなことはできなかった今年の夏だったけど、年齢に応じて過ごし方も変わると言うことで。
キラキラキュンキュンした夏を過ごしていた頃が懐かしいなぁ。
毎年、ただただ身体に堪えるようになってきた。