日々の暮らしのこと-mico

いろんなことを感じます。そのまま文字にします。

大東さんの生き方に思わずブログを書く。

yahooニュースのwith newsに、俳優の大東駿介さんのインタビュー記事が載っていた。内容は、「育児放棄された過去」というもの。よく知っているわけではないが、自分の知っている俳優さんが結構な過去を語っていることに興味を引かれ、その記事に目を通してみた。

 

小学3年で父親が、中学2年で母親がそれぞれ蒸発。もうこの時点で、私の想像力は限界を迎える。

中学2年の子供が、両親から捨てられてその後を生きていけるのだろうかと、理解に苦しむ。大東さんはなんとか親戚の方に引き取ってもらい、生きていくことができたそうだが、約1年間は親のいなくなった家で一人で暮らしていたらしい。

 

その中で、大東さんが家の1階にあった全身鏡に向かって「殺すぞ!!」と叫んでいたと言っているのだが、当時を振り返って、『自己否定でしょうね』と回想されている。到底、大東さんには及ばない程度の経験しかないが、私も自己否定をしてしまうことがある。軽い自傷行為であったり、ひたすら自分を蔑む時間を取るとか、泣きじゃくるとか、そういうこと。大東さんとは違う方法だけど、大東さんがしていた自己否定の行為にも、同じような匂いを感じるような気がしている。いや、本当に同じにするなと言われそうだけど。(誰に)

なんていうか、誰も真っ向から否定してくれないから自分で言う。こんな自分早くいなくなればいいのにと言うことを、全力で表現する。誰も言ってくれないから言うけどって。それほど、親の愛情で埋められなかった心って、自分を肯定できなくなってしまっているんだろうなと感じます。

 

そんな中でも大東さんには、ドアを突き破ってでも遊ぼうと言ってくれる最強の友人たちがいた。これは大東さんがお持ちの人望によるものだったのかなと思いますが、私は大東さんの生い立ちを読む中で、このエピソードにとても救われました。

 

大東さんの言葉で、「親がいなくなるというのは、自分の価値を肯定してくれる人がいなくなること」というのがありました。これは・・・しっくりくる〜!逆に言うと、「親というのは、自分の価値を無条件で肯定してくれる唯一無二の存在」ということにもなるのでは?いやほんとに、親からの愛情って、人間形成の大きな部分を占めますよね。だからそれを実感として言葉にする大東さん、すげぇ〜。

 

さらに感銘を受けた言葉としてもう一つ。「自分の価値を認めてくれる人がいなくなって、そのまま消えてしまう選択肢もあったけれど、僕は、生きることを選んだ。」全てが凝縮されているような気がしますね。

きっと、ネグレクトを受けて真っ当に生きようとする気力が湧く人なんて、本当に少ないと思います。私だったら、まず間違いなく死を選ぶ。そうでなかったとしても、自暴自棄になってひどい生き方をすると思う。なのに大東さんは生きることを選ぶと同時に、こんなことも言っています。「それに、自分には好きなものがあったんですよね。たとえば漫画。俺が死んだあとも『ONEPIECE』は続いていくしな。この続きは読みたいなって。そんな些細なことで、生きると決めていいと思うんです」とな。

子供にとって、親という存在が世界の全てであるうちに、その親を失うということが、どれほどのことかと考えると、楽しいことも嬉しいことも感じなくなってしまうのではと思ってしまう。でも大東さんには、そういった生きる希望なるものが、ごく身近にあってそれをそのまま素直な感情で感じることができたということ。私はある意味で「才能」に近いものがあるのかなって思いました。

 

ただそういう意味では大東さんも中学までは一人でいる家の中だけが、世界の全てだと思って生きてきたとのこと。もうここから出られないとも思ったと言ってます。けれど、先述のご友人たちや引き取ってくれた親戚の方のおかげで、「たやすく」広い世界を見ることができたと。「ここが限界だ」と思っていたものがどんどん壊されていったと。

心が素直じゃないと、なかなかそうはなれないよなぁと思う。私なんて、「我」の塊のような人間だから、周りから言われたことをそう簡単に受け入れらないし、心も簡単に開かないし、そのさきに一歩進むのにとても時間がかかる。大東さんは自分の心の限界っていうとてつもなく難しい壁を、真っ直ぐに突き進んで完全突破していったんだなぁと思うと、めっちゃ尊敬する。

 

とまぁ、大東さんの勇気あるというか、希望になるインタビュー記事に拍手喝采というところでしょうか。(誰やねん)

いろんな環境に身を置いて苦しんでいる人たちのことを多角的に広い視野で捉えてエゴに偏らず話をされていて、すごいなぁと感じました。

 

自分もいつか、親の愛情がしっかりと埋まるところまでもって行けたらいいなと、改めて思ったのでした。

 

 

文献:withnews『「電気より食べ物を優先した」俳優の大東駿介さん”育児放棄”された過去 ドアを突き破ってくれた親友』より引用

 

news.yahoo.co.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すっぽかしを受けた先にあるもの。

昨日、友人に約束をすっぽかされた。正しくは、すっぽかされ未遂をされた、ですが。

先週、LINEにておうちに行くという連絡をして、約束を取り付けていたのだが、友人はどうやら仕事の忙しさもあって、その日の同じ時間に別の大事な用事が入ってしまったので、私との約束をすっかり忘れてしまったようなのである。

これが不幸中の幸いで、普段、目的地に行くときには以前の約束を信じてそのまま向かっていた私ですが、その日はたまたま「参ります!」と一言連絡を入れたのでした。それに慌てた友人から電話があり、「ごめん!忘れてたぁ!」と。事の事態が明らかになったという感じで。ほんと、留守の友人宅に行って絶望感を味わなくて良かったと思いますが。

 

別にね、哲学的なことをこの出来事から導き出すわけではありませんよ。私は聖人ではないから。えぇ。正直言って、腹が立った。だってはるか昔にしたわけではない約束を、こうも簡単に忘れる!?って思いませんか。

そんでもって私はその時、絶賛『自己否定期間』中だったので、その友人からの態度でそこにさらに拍車がかかり、廃人のようなに落ち込みました。

「どうせ私なんて、約束忘れられてしまうぐらい、影の薄い存在なんだ。」「どうせ私なんて、友人からしたら、大して大事な存在でもなんでもないんだ」「もしかしたら大した存在ではないことを通り越して、友人にとっては私は来てほしくないレベルの鬱陶しい人間なのか。話して元気が出るから会いたいなと思ってもらえる人間なら、こんなことなくない!?」って、自分を追い込めるだけ追い込むという拷問をしました。

 

人間ってきっとそんなに物分かりよくは作られてないと思う。現に、そうあろうとして我慢したとしても、必ず爆発の時はやってくるから。だから私も、人には言わないけども、自分の中でぐらい感情爆発させるわい!と、自分の心に正直に思っていることを爆発させまくりました。

 

でもそれによって一つだけ前進したことがあります。感情をしっかり吐き切った時に、割と冷静になれるんですね。だから、その先に、思考を巡らせることができるタイミングがやってきます。その時やっと、相手の立場になって考えることができる。

まぁなんて幼稚なんでしょう、自分は。そんなことしなくても優しくて思いやりのある人なら、最初からそこまで思考を巡らせていたでしょうに・・。そこは根っから残念な人間と自覚するしかないとして。

そうなった時に、「あぁ、きっと仕事とかプライベートとか、頭ごちゃごちゃになるぐらい色々あって、急に入った予定が混乱したんだろうな」とか「そういうこと、私にもあるじゃん!」とか、思いを馳せることができるんですよねぇ。

 

早く連絡して、最近忙しくない?心を大事にできてる?と聞いてあげたくなる私なのでした。

他人の愚痴を見ることを厭わない人は見てください。

現在の愚痴を吐くと以下のようになります。

 

①眠い。眠すぎる。朝起きてから寝落ちするまで、ずっと眠い。なんなら今も仕事中に寝てしまいそうになるのを必死で堪えている。それはもう必死に。

眠いから文字を打っているというのもある。タイピングをしているおかげで確かに居眠りはしなくて済んでいるからいいのでしょう。うむ。

 

②私はどうしたって、理想の自分にはなれそうもないということを感じている。そもそも理想が高すぎる。本当にとんでもなく高いしでかい。それはもうエベレスト級に高い。以前、友人がエベレスト登頂していたので、その道中のエピソードを聞いてみたいものです。(なんの話)

私の理想というものは、とにかく完璧な人間であることだとつくづく思わされる(自分に)。それを思わされる時は、自分の力不足や不甲斐なさやどうしようもなさやクソ人間っぷりに呆れ返っている時です。

こんなにも落ち込むのはなんでなのかを考えていると、その理想がびっくり仰天なほど高いことを認識するのです。ありゃー。

 

③目がかすむ。1週間ほど前から、コンタクトレンズをつけている両目の異変が続いています。もう目薬の水分なしでは、目を開けていることもできなぐらい。目を開いてパソコンを見ていると、徐々に視界が霞んでいき、全体的に白っぽく見えてしまうから、非常にストレス。パソコンの文字も見えないほどにかすむから、もうこれは尋常ではないと思い、仕事中にもかかわらず眼科を予約。コンタクトレンズの購入以外で眼科にかかるの何年振りかしら。

人間とは原因不明の体の異変に恐れ慄く生物だと、ほとほと実感しています。この現象が起きてからというものの、見えにくい目を必死に開けながら、Google様の検索バーに「目がかすむ 白っぽい 乾く 眩しい」などと、拾ってもらえる限界ギリギリ(いやもうオーバーしているのでは)と思うほどスペースキーで入力し、検索をかけては自分の症状と同じような文献を読み漁っています。

それにしても現金だな自分はと思うのは、『白内障よりはドライアイ寄りの症状だよな、うんうん』と言い聞かせながら見ているところ。

本当に怖いんだよう〜!白内障とかの手術いるレベルの病気だったらどうしよう〜!なんとかしてくれよう〜炭治郎〜!(善逸かな)

と、まぁ、兎にも角にも、眼科へ行って診察してみないと、もう何も信じられないレベルにストレスなので、明日、運命の時を迎えようと思います。(大袈裟)

 

④結婚って何。私は結婚したい。今すぐにでも。できる相手がいるならば。(いない)

どうして周りの友人たちはこうも都合よく結婚していけるのだろうか。私にだって結婚を考えたことのある人ぐらいいるが、残念ながらそこに至らずお別れしてきた。

結婚って女性が持つイメージと男性が持つイメージ違うと聞きますね。そりゃそうか。今の日本ではまだまだ男性が家族を養うものというイメージや風潮は拭いきれないから、当人たちは少なくともそのプレッシャーを感じるわけで、好きな女性がいたとしても、結婚となると話は別!と思っている人も少なくないはず。確かにそうだ。

でも私は女に生まれて、女としての人生を生きてる。子供だって2人は欲しいし、この人だと思う人と、一緒に暮らして美味しいご飯を食べて楽しい映画を見て、真剣に人生を語りながら生きていきたい。そしておじいさんおばあさんになったら、縁側で日向ぼっこしたい。

そりゃぁ並大抵のことではないとは思うよ。他人と一緒に暮らしていくんだから、これまでにしたことのないような我慢や悲しい思いやつらい思いもするんだろうけど、それってうまくいけば2分の1になると思わない?楽しいことや美味しいもの食べた時の感動は2倍やで。いや何倍にでもなりそうと思う。

とにかく私は、「この人や!」と思う人と今すぐにでも結婚したい。交際0日婚でもいい。

 

⑤体がだるい。倦怠感と呼ぶアレです。きちんと寝ても、朝起きた時の疲労感がこれまでの比ではない。なぜ。本当になぜ。年齢のせいなのかな。もう少し若い時は、基本的にどんなに遅く寝ても、ひどい寝方をしても、朝は早朝に自然に目が覚めていて、爽快感でいっぱいの中、伸びをしていた記憶がある。朝ごはんだってもりもり胃に放り込んでいた。なんというか、こう細胞レベルで体全体と心に爽快感があったような感じ。

それが今となっては、気持ちよく伸びをすることなんて到底考えられないような寝起きです。もう朝から落ち込む日々。どうして朝が来るんだろう、休もうかな、体が動かないよう〜と、目が覚めてからベッドの上で、ネガティブな思考しか巡らない。だから朝の支度も遅くなるわけで、ココ最近、しっかりした朝ごはんというものにありつけていないのが現状である。私の人生、朝しか取り柄がなかったのに、起きても元気がでず、ご飯も胃が受け付けず、職場にきてからもなんの気力も湧かず、以前では考えられないほど、自席の椅子にお尻がくっついてしまっている。

朝から夜寝るまで、倦怠感・疲労感が抜け切らず、ただぼーっとして1日が終わる。楽しいことも心躍ることもなく、腹から笑うこともないまま日々が過ぎていくような感覚なので、生きている意味がわからなくなってきてしまっている。

ここに結婚前提にしたお付き合いしている人でもいれば、目標の一つでもあったのに、それもない。絶望の二字である。

 

と、今日はこんな感じで愚痴を羅列した。

文字化できるって素晴らしい。ありがとう、文字という文化、文章という文化。

なんか少しスッキリした。

想像力を必要とするのは誰か。

他人との会話は、億劫だと感じる。

しばしば理解度の違いによって、誤解を生み出してしまうことがあるから。

その結果、相手に対して、この人面倒くさいなぁとか理解不能だとか、マイナスのイメージがついてしまうことも珍しくないと思う。

 

かくいう私は、相手に対して、会話の中で与える情報量が絶対的に少なかった方だと思います。からして、頻繁に誤解を生んでいた。(に違いない)

どうして与える情報量が少ないのかと言うと、圧倒的に相手に対する依存心理だと思われる。(専門家ではないのであくまで個人的推測)

 

例えば、私は友人に、面白いと思った話を、同じように面白いと思って欲しいと思って話す。

良くも悪くも、私はその友人を信頼し切っている。(問題なのはここ。)

そこで、自分が伝えたいことだけ捲し立てて話しておきながら、その「行間」を埋めるような伝え方にはなっておらず、あとは私を知ってくれている友人の受け取り方に任せてしまっている部分が多い。

ここでめんどくさいのが!、友人の受け取り方という部分において、

「ご勝手にどうぞ」ではなく、

「私という人間のことを知ってくれているでしょう?

であれば、私がどういうニュアンスで面白いと思ったかわかるよね?」という

心底身勝手な人任せなのです。

書いていて、自分でも呆れてしまいます。笑

 

けれどこれ、意外と結構やってしまってないでしょうか。

特に家族間であれば、ありがちな事かもしれないとも思う。子供が親に対して、親なら分かってくれると思って感じたことだけで会話をしているとか、姉妹で楽しい会話をするときにシンパシーみたいなもので通じ合える分、いろんなものを端折ってしまっているとか。

まぁそれは家族だからこそ成り立つし、何かあってもそれほどのしこりが残ることもないと思う。

でも、他人同士であれば、そうもいかないから気をつけたいなぁと思う。

 

その反省点から、最近では相手が自分の言葉を聞いて、

ちゃんと私が伝えたいことが想像できるかということまで

考えながら話すようにしている。

 

想像力を働かすって、会話において実は発信する側にとって大事なことなのかも。

 

 

 

 

はじめに。

暮らしのことや感じたことを、とりとめもなく、感情的にはならないように、書き連ねていきたいと思います。

 

どうぞ、よろしくお願いいたします。