変化するということ。
実はここ最近、数日の間に、2回も同じ言葉を聞いた。
一つは、先週で最終回になってしまった、火曜10時から放送していたあるドラマの登場人物の言葉。
妻に先立たれた父と、35歳を目前に仕事中心で結婚する気配のない娘が、励まし合いながら一緒に婚活をするというあらすじ。その父が、娘の婚活を見守りながらも、確信込めて発した言葉。
もう一つは、アニメ。宇宙を旅する中で、地球外生命体との遭遇をくぐり抜けながら、到達したのはなんの苦痛も感じることのない永遠の生命だったが、「人は一生という限りある時間を生きるからこそ、強くて美しい」というセリフと共に、ある登場人物が語っていた言葉。
この二つの作品の中で語られていた言葉、
それは
『生きていくということは、変化するということ』
だった。
なんて確信をついた言葉なのだろうと思った。
わたしは変化を好まない。
今いる場所が安心なら、できうる限りそこから動きたくないと思っている。
あちらこちらへ動きたくないから、いつもいち早く安住の園を作ろうとしているとも言える。
とにかく、『変化』というものを好まない。
適応能力がない。適応できる自信がない。
新しい人、新しい場所、新しい道具。
慣れるのにとにかく時間が掛かる。
だけど、変化の中で生きるからこそ、人間として生きていることに、厚みが出てくる。
そう思えるようになったのは、ごく最近のこと。
毎日思えているかといえば、そうでもないが。
変化するごとに、苦しいこと、悔しいこと、悩むこと、嬉しかったこと、ラッキーだったこと、たくさん出てくる。
感情のルーレットみたいになって忙しいけど、そこで得られるものは、変化しない人生に比べると、想像もつかないくらい大きいに違いない。
もちろん、そのルーレットに翻弄されて、感情に支配されてしまうと、意味もなさないけど。
その経験があるからこそ、同じ悩みで苦しんでいる人のために自分の経験があったんだと思える。他人のために生きていく人生になっていく。
すごいことだなと思った。
数日の間に、違う作品で2度も全く同じ言葉を聞くことなんて、そうないだろう。
ある意味、今の自分へのメッセージだと受け取って、前進していこうと思った。
足元から。
今日は、沖縄「慰霊の日」。
これまで幾度となく耳にしてきた、凄惨な77年前の沖縄地上戦で亡くなられた方の命を追悼する日。
本当に現実にこの世で起きたことなのだろうかと、平和な世の中に生まれて育ったわたしには、およそ信じられないようなことが語り継がれている。
本当に人間が人間に対して行うことなのだろうかと、考えられないようなことが起こっていた。
それゆえに、戦火に巻き込まれた人の心は壊れ、憎むべき対象を間違え、「やらなければやられる」という思考に陥ってしまうほど、人間の持つ心の一番醜い部分が増幅し、人間共和の世界を壊してしまったというのも、大きな被害の一つだったのだと思う。
戦争なんて、もってのほかだ。
ふざけている。
絶対に間違っている。
すべきではない。
人の命をなんだと思ってるのか。
今この瞬間にも、戦争によって誰かの命が尽きているかもしれない。
多くの人に祝福されて産まれ、お父さんお母さんの愛情をこれでもかと目一杯受けて育ったその青年に、戦争で死ぬなんていう未来があっていいはずがない。
たくさんの苦労をして、何十年も苦難に耐えながら歴史の一幕一幕を一生懸命生きてきた、おじいちゃんやおばあちゃんが戦争なんかで最期を迎えていいはずがない。
誰もが澄み切った目を輝かせ、無限の可能性を秘めた子供たちに、銃弾が向けられていいはずがない!!!
正直、毎日歯がゆい思いをしている。
いますぐ停戦すべきだと思うのに、いつまで経ってもそうならない。
もういくつの尊い命が失われと思ってんだ!
1分1秒でも早く、停戦すべきだと思うのに、どうもならない。
でも今日、お昼ご飯を食べながらテレビを見ていると、「慰霊の日」の式典が中継されていた。
知事に続いて、小学生の女の子が登壇した。
「児童・生徒の平和メッセージ」で最優秀賞を受賞した詩を朗読するためだった。
黒い服を着た大人たちばかりが参列する、重苦しい雰囲気のなか登場した小学校2年生の小さな女の子は、誘導役員の女性について参列者の前を横切り、幾分緊張した面持ちで彼女の顔の半分ぐらいはあろうマイクの前に立って、顔を上げた。
そして、以下の詩を、大きな良く通る純粋無垢な声で、ゆっくりと、一生懸命に、朗読した。
涙が出た。
平和を希求するとは良く聞かれる言葉だ。
「平和」と叫ぶだけなら、言葉にするだけならいくらでもできる。
一体どれだけの人が、個人レベルで意識して行動しているだろうか。
それをこんな小さな女の子が、平和への道を示す答えを自分で導き出し、行動しようと訴えかけている。
わたしは、どんな識者よりも、どんな国の大統領よりも、どんなに偉い政治評論家、軍事評論家よりも、ノーベル賞を受賞した平和学者よりも、この女の子が偉い!!!と思った。
平和は自分の足元から。
どれだけ平和を謳って素晴らしいことを言っても、自分の家族を大事にできなければ、隣の家の人と仲良くできなければ、母を想う心がないのならば、なんの意味もなさないと、心からそう思います。
小さなポケットに入れた、大きな素晴らしい心がどうかどうか永遠に輝き続けますように、と切に願った。
急な欲求。
美味しいあんバターぱんが食べたい。
あんこは、粒が大きくたくさん残っていて、甘さが控えめなもの。
そこに少し塩を振り掛けて、バターをon the あんこ。
あんこは作りたてで、まだあったかいうちに。
どんなぱんが合うんだろう?
あんバターぱんって、好んで買ったことないから良くわからない。
硬め?
柔らかめ?
米粉的なもちもち生地?
おもちに合うんだから、もちもち生地は一理ありだな。
形はどうだろう?
コッペパンの形が食べやすいのかな?
王道であろう、中にサンドするやつ。
トースト風に上に乗っけるだけでもいい?
たくさんは食べられないから、小さなトーストだと嬉しい。
ぱんは焼いたほうが美味しいのかな?
焼いたら食感が楽しそう。カリッとしたぱん生地とねっとり濃厚なあんことバターの違いを楽しみながら咀嚼できたら最高かも。バターも焼いてある方がジュワッと染み込みやすそうだな。
それともそのままの方があんこの風味が感じられる?
もちもち生地なら、それもありかなぁ。
え、作ろうかな。
改めて整理してみた。
今現在、自己肯定感を絶賛育成中です。
そういう話はこれまでにもたくさん書いてきたと思います。
恋愛結婚が当たり前だと思っていた頃、自分がこんなにも恋愛依存体質だとは自覚していなかった。
もっと言えば、「恋愛体質」だとは思っていたけど、「依存体質」だとは思っていなかった。(同じ?笑)
恋愛している時のわたしの思考は、こうだ。
好きになった相手は、奇跡的にも相手もわたしのことを好いてくれている。(もう人生で最上級の喜びの渦中にいる。天をも舞う気持ち)
だからわたしに優しい。だからわたしの全てを受け入れてくれるに違いない。
そして、惜しげもなく自分のことを深い部分まで話したくなり、何でもかんでも知ってもらおうとしてしまう。
愛情不足で育ってきているので(親があまり相手してくれなかったので、自分のことをよそ見せずに見てくれる人というのに、根本的に飢えている)、自分だけを見てくれる存在というだけで、最強に安心してしまう。
でも、そのスタートからして、もう結構アウトなのだなと自覚したのは最近のこと。
ただ、大抵の人は受け入れてくれるし、少なくとも表面上は話を聞いてくれている。
だからその反応に気を良くして、今度は自己肯定感の低さからくる満たされない感情を埋めてもらえると勘違いし、子供のように相手にすがってしまう。
そうすると、個人差はあるが、大体はすぐに音を上げる(この言い方ももはや失礼)。
そりゃ〜そうだろうな。
勘違いしてるけど、”親じゃない”から。
簡単に言うと、”自分のことは自分でやれって話だよ”と、自分にツッコミを入れたくなる。
要するに、
わたし今、寂しい想いをしているから、(相手に非はないし全く関係のないことだったとしても)寂しい想いを解消させてよ!とか、
相手に何か言われてカチンときたら、わたし達はお互いに好き同士なんだから、仲直りできるよね!?あなたもわたしのことが好きなんだったら、さっきのとにかく撤回して、わたしの気分を持ち直してよ!とか、
自分の感情の操縦を相手に任せている状態で、かと思えば、野次馬のように「あーしろ」「こーしろ」と、我儘な指示だけ出す、じゃじゃ馬状態でした。
うまく表現できているかわからないけど、そんな感じ。
そりゃ相手も、こんなわけわからん女、女房として一緒に暮らしていこうとは思わんわなと、やっと学んだわけです。
それからは、相手から一歩離れたところで付き合う感覚を大事にしようと意識するようになりました。
すると不思議にも、相手も自分のことを丁寧に扱ってくれているような気がするのです。
わたしの場合、くっつきすぎると破滅するんだなと分かりました。
だから、『大好きラブラブ!この人と出会う運命だったんだ!一生離れたくない〜!!』なベッタベタな関係より、血の繋がった家族に近い、空気のような気の合う友達のような存在がベストなのかなと思っています。
将来の子供のことを考えると、”その感覚で一緒に入れる人”と”生理的にOKな人”が同じかは疑問ですが、焦らず周りを見渡してみようと思います。
きゅっと胸が苦しくなる。
給食。
好きだったなぁ。
食べることが大好きだったわたしにとって、学校という、無機質でストレスフルで早く帰りたいと思うそんな場所での給食の時間は、とても大切なものだったと思う。
カレー
シチュー
あまぁ〜い砂糖のまぶされた揚げパン
パイナップルの入った酢豚
冷凍りんご(みかんじゃないんかい!とお思いの方もいるはずw)
コッペパンに付いてた、いちごジャム・チョコクリーム・ピーナッツクリーム
コッペパンって均等な大きさじゃないから、お盆に乗せられたのが小さすぎたり大きすぎたりしたらテンション下がったなぁ。
・・・・・・・・・あれ?
こうして思い出そうとすると、案外そんなに思い出せない笑。
しかもなんか、デザート的な甘いもの系多くない?笑
酢豚は酢豚でも入ってるパイナップルが嬉しかったと見える。
家で、いかに甘いものに飢えていたかが分かりますね笑。
割と好き嫌いもあったので、メニューによってテンションが違ったのも事実。
アサリの入った和え物とか、椎茸たっぷりの吸い物とか。今も嫌い。
中でも好きだったのは、デザートものの冷凍りんごです。
半分の大きさの小ぶりのリンゴが個包装で冷凍されてるやつ。
もちろん真ん中の種の部分はくり抜かれて。
半解凍の状態で出てくるから、食べる頃には歯も通って、シャリって冷たくて美味しいんですよ〜。
でも、ほぼ解凍された状態とはいえ、小学生には結構な冷たさで、しかもリンゴ半分だから食べるの大変な時もあったかな笑。
それでも、満足感がすごくて、甘くて美味しかったから、大好きだった。
給食といえば、思い出をもう一つ。
クラスに少し体の大きな女の子がいました。
わたしたち小学生は、時間内に給食を食べ終わらないといけないので、苦戦することもありましたが、その子だけはいつも余裕で食べ終わることができていた。
だから誰からともなく(もしかしたら自分だったかもしれないけど)、その子の食べ方をみんなで真似するようになった。
同じ班になった時は、必ずその儀式?が始まります。
「ねぇねぇ、◯◯ちゃん、何から食べるの?」
「じゃぁ、まずはこれを食べてください」
みたいに、その子も当時は満更ではないように見えたけど。
特に何も言わなくても、その子の食べる順番や量を真似して口に運んでいたっけ。
わたしは純粋に助かってた。おかげで食べる時間もみんなで共同作業みたいにできて楽しかったし、綺麗に食べ終えれていたし。
でも、今となってはその子がどう思っていたか。少し申し訳ないことしていたなぁと思い出すことがある。
当時のわたしは、相手がどう思うかとか考えて行動することができない小学生で、そんな行動も実は彼女を傷つけていたかもしれないな。
少し切ない反省と共に、久しぶりに給食のことを思い出してみました。
Oisix特別お題キャンペーン「好きだった給食メニュー」
嫌いなものと付き合う。
雨の日は、皆さまいかがお過ごしですか?
わたしは雨が嫌いです。
湿気のせいで、髪はうねるしまとまらないし、湿気を含んだ寝具は気持ち悪いし、洗濯物はカラッと良い匂いに仕上がらないし、そこらじゅうベタベタするし、濡れると寒いし、水溜りに突っ込んで靴の中に水が染みるし、外は何やら生臭い匂いはするし、気持ちはしとしとじとじとどんよりするし。
書いてて、ここまで雨嫌いの理由を並べられるとは思わなかった笑。
だけど、『恵みの雨』とはよく言ったもので、雨は生きていく上で、必要なものなんだろうなと思い始めたのは最近のこと。
雨が降らないと農家さんたちは悲鳴をあげる。それに連動してわたしたちの食卓も貧しくなる。美味しい新鮮なお野菜が思いっきり食べられなくなるのは、とても悲しい。
あらゆる植物が育たないと、その植物を食べて大きくなる動物たちが、満足に成長しなくなる。お肉を食べられなくなってしまうかもしれない。
川のお魚も食べられなくなってしまったり。
木が育たなかったら、わたしの大好きな木の素材の雑貨や家具も手に入らなくなってしまう。
人間の生活面でもトイレやお風呂、1日生きるだけでもたくさんの水を使うけど、清潔な水での生活ができなくなってしまうかもしれない。
と、現実的に考えればもっと多すぎるほどの支障が生じてくることが分かる。
自然現象を忌み嫌っても止まってくれない。ので、あまり意味を成さない。
「嫌だなぁ」と思って1日の始まりをどんよりスタートすることに、もはやなんのメリットもない。
となれば、アンミカさん的な発想で、朝起きて雨だったら、『恵みの雨だ!!ありがとう〜〜〜!!!』と、大きな笑顔で感謝する方が、よっぽど気持ちがいいなと思った。
だからと言って、雨が好きになるとは限らないけど、その日を憂鬱な気分で棒に振ってしまうより、幾分マシだと思う。
雨の日の朝は、少しずつ意識して、カーテンを開けてみようと思った。