結局、自分は自分という話。
日頃から、とてつもなく深く考え込んでしまう。
気を遣ってかなんなのか、周りの友人たちは「考えすぎ!」とまでは言われないが、人の何倍も考えているとおもう。
何を考えているのかというと、さして気にしなくてもいいようなこと。
一歩を踏み出そうとすると、決まってもいない将来に不安を抱いて、まるでその将来が決定づけられてしまったみたいに、悪い未来を想像して怖くなって、前に進めなくなる。
だから、どうしたって人としての経験値が少なくなってしまったり、人間としての成長が遅かったりもする。(気がする)
悪い想像は、とどまることを知らない。(ミスチルかな?)
もう本当に、炭酸の中にラムネを入れた時みたいに、手が付けられないぐらい、一人でにどんどん膨らんでいくのが常だ。
その渦中にいるとき、わたしは周りが見えていない。
周りの人は、きっとわたしが思慮深く高尚な考え事でもしているのだと思っているに違いないのだけど、とんでもない。真反対の低レベルな心配事で、頭の中をいっぱいにしながら、ただただ不安に怯えて立ち止まっているだけなのだ。
ふと気づいて周りを見渡すと、竜宮城の玉手箱を開けたおじいさんみたいになっていた。
わたしが不安で前に進もうとしない間に、友人たちはきちんとやるべきことをやって、悩むべき時に悩むべきことを悩んで乗り越えて、次のステップへ足を踏み出していた。
周りと比べる必要はないのかもしれない。
このスピードが、わたしという人間の歩むべきスピードなのかもしれない。
もうそう思う以外に、この状況を受け止める術はないなと観念している。
みんな一緒にいた時代には分からなかった、自分という人間の特殊性に、歳をとってようやく気づく。
人より少しスピードが遅いから、一人残されて不安になることもある。
それでも、もう開き直っている。
そんな特殊な自分が、どんなふうに人生を進んでいくのか、楽しみだ。
無理をする必要もない。
誰かの言いなりになる必要もない。
わたしの人生だ。
やりたいことをやったらいいし、何もやらなくてもいい。
何かに挑戦しても、しなくても、全部自分の人生だ。
自分次第だ。
何もしなくても、きっと少なくとも数十年後にはこの人生は幕を閉じる。
誰とも絆を築かなくっても、どこかで体が灰になる時がやってくる。
身体的な生命が一旦今世で幕を閉じるとき、わたしは何を思うのかな。
どんな大切な人を想うのかな。
そういうことを想像してみるけど、こればかりは考えても分からない。
最近の楽しみ。
アマプラ会員である。
と、わたしとしては、今更ながらというレベルの話です。
アマゾンプライムビデオが見放題で、その恩恵に預かっている。
更に、アニメストアの会員にもなっているので、アニメも比較的見放題です。
暇さえあれば映画やアニメを鑑賞してきたこれまででしたが、ついにあの超大作に挑み始めました。
そう、『ワンピース』です。
長いよ、先はまだまだ長いよ。
漫画でも読むの大変なのに、アニメだと自分の力量では時間を短縮してみることはできないから、もっと時間かかるよ。
それでも、昨今「最終章」に突入したと噂の『ワンピース』。
その最後をわたしも感動で迎えたいと、今更ながら、十数年の時を経て、『ワンピース』制覇に乗り出しました。(中高生ぐらいの時には少々齧っていた)
今週末は、激務のおかげでぐったりしているだろうから、久しぶりにアニメづけの週末にするとしよう。
へっへっへ〜楽しみ。
懐かしい味。
小さい頃に父が作ってくれた、不揃いで大量のドーナツ。
小麦粉、砂糖、ベーキングパウダー、卵、牛乳、、
レシピは見ずに、感覚で混ぜる。
出来たタネは、家族全員で粉だらけになって、成形していく。
型でくり抜くのもよし、好きな形を手で作るもよし。
思い思いの形が出来上がっていく。
そしたら今度は揚げ担当の母にバトンタッチ。
油の中で香ばしくて甘ーい香りを漂わせながらみるみる膨らんでいく。
その様子を見るのが大好きだった。
いつも父は、分量無視で作るもんだから、出来上がりは大量。
大皿2枚に山盛りの不揃いのドーナツ。
揚げたてはカリカリふわふわで、何個でも食べられそう。
でも冷えたらかたーくなって、人気がなくなってしまう。
それでも甘いものがなかった我が家では、お腹を空かせた子供のおやつがわり。
カリカリの食感はなくなって、口に入れてもモソモソして口の中の水分がなくなるけど、その素朴でほんのり甘い味は、なぜかくせになる。
やっぱり何個でもいけてしまう味。
家族みんなで楽しく作った思い出の味。
それがわたしの大好きなおやつです。
こだわりのはなし。
何かを決めるときに、ほとんど直感で生きてきた人間だ。
でもみんな、”こうこうこういう理由があるからこれに決めた”とか、”譲れない一点があるからこの道に進む”とか、案外ちゃんと考えて理由を持って物事を決めているような気がする。
昨日友人と話していて、それを顕著に感じた。
友人は、自分が欲しいと思うもの、こうしたいと思うことは、条件の範囲で(その条件もなかなかだけど)必ずと言っていいほど、実現している。
もっと簡単に言うと、妥協をして物事を進めることが大嫌いな人だ。
もちろん、常識の範囲内でだけど。
その友人に、自分自身が決めようとしていることについて話すと、「譲れない条件を諦めようとしているように見える」と言われた。
図星だった〜。
そして友人は、わたしが何を諦めようとしていて、それがいかにわたし自身に必要なことかを、わたし以上に詳しく説いてみせた。
不思議なもので、見ないフリして願望に蓋をしていた時はわからないのに、他人の目から見た自分のこだわりというものが、いかに自分に必要かを聞かされると、わたし自身がかわいそうになって、泣けてきた。
早く事を前に進めたい気持ちと、捨てたくないこだわりを捨てなくてはならない葛藤の狭間で、混乱していたんだろうな。これまで直感で決めることが多かったわたしにとって、こだわりや理由を最後まで貫いて物事を決めるということは、とても難しいことなんだろうな。
「そこは譲りたくないところなのに、諦めようとしてたんだね。ツラいよね。」
「諦めなくていいよ。ちゃんと大事にしたらいいんだよ。」
自分で自分の心にそう言ってあげられている気がして、ほっと安心できた。
やっと自分自身を客観視できたんだと思う。
直感で物事を決めるのなら、焦らず待たなきゃいけないような気がする。
目の前に現れた選択肢を、いくら考えても、考えても考えても、答えには辿り着けないような気がする。
もう考えすぎて、頭が痛いところまでいってしまっている。
もう少し流れに身を委ねてみてもいいのかもしれない。
2022.7.8
先日、参議院選挙の真っ只中に、元首相の安倍晋三さんが亡くなった。
それも、街頭での応援演説中に銃で撃たれて。
速報で入ってきたニュースも、一瞬嘘なのではないかと思うような感覚があった。
これほどタイムリーで大きなニュースはなかったんじゃないかと思うほど。
銃撃を受けたその日の夕方に、死去のニュースが流れ、晩にはほぼ全てのテレビ局が放送予定を変更して緊急特番を生放送で放映した。
銃撃の当日ということで、情報や事実なども限られた中だっただけに、どの番組も同じようなことを何度も繰り返しながら、コメンテーターがひたすら話をし続ける中、特に印象的だったのは、どの番組でも、実際の演説中の銃撃の瞬間が何度も放送されたことだった。
初めは何気なくみていたその映像も、あれだけ何度も繰り返されると、流石のわたしも少し気持ちが沈んだ。
よく考えれば、たった数時間前まであの気迫で若手候補の応援のために腹から声を出して真剣に喋っていたのにだ、その数秒後に体に銃弾を埋め込まれて命を落としてしまったのだ。
とてもツラい映像だと思う。
近親者にとっては、自分の身内のあんな酷い瞬間が何度もテレビに映されるなんて、耐え難いだろうなと思う。
選挙を戦っている議員さんたちからは、「民主主義の象徴たる選挙活動中のあのような蛮行は、許すことが出来ない。民主主義への挑戦だ」という声がたくさん聞こえてきたけど、それもある人たちからしたら、正解というか正義なのだろうなと思う。
けど、いち庶民のわたしみたいなのからしたら、あんなふうに人を憎んで人を殺してしまうような社会をこれ以上広げないように、政治家に頑張って欲しい。ただそれだけのような気がする。
首相経験者だろうが、家なしびとだろうが、おんなじ人間だし、その死になんの違いもないと思う。銃撃の瞬間の映像に気持ちが沈んだのも、それが「安倍さん」だからではなく、「一人の人間」が銃弾に倒れる姿に衝撃を受けたから。
だから、今回安倍さんが亡くなったことは政界にもちろん惜しいことだろうし、著名人という意味で驚きはしたけど、わたし自身はそれ以上この死を崇高なものにする必要はないと思う。
どうしてこういうことが起きてしまったのか、日本はどう変わっていかなくちゃいけないのかに焦点を当てて、今回猛暑の中激戦をくぐり抜けて当選した議員たちには、頑張って欲しいと思います。
最後になりますが、安倍晋三さんのご逝去に対しましては、心よりお悔やみ申し上げます。
追善回向をお祈り申し上げます。
きっと、安倍さんの志を継いだ、党派を問わない多くの後継者が、今後の日本・世界を平和に導くために、働いてくれることを期待して。
エッセイを読んで。
ある人のエッセイを読んでいて、自分のこれからの人生が少し楽しみになった。
大人だけど、小学生の頃に好きだったキャラクターを見て少女に戻ったり、少女の頃のことを思い出して嬉しくなったり懐かしさに浸ったり、大人の自分を通してそのキャラクターが好きだった頃の自分を子供に伝えてみたり、またその子供の反応が思いもよらないもので驚いたり嬉しくなったり。
感情が行ったり来たりしているのが、読んでいるわたしにも伝わってきて、微笑ましくなった。
わたしも同世代で、同じアニメに夢中になった世代だからだろうな。
そう思ったら、自分も早く、まだ見ぬ自分の子供とそんな話がしてみたくなった。
ただ単に自分が大人になったという視点だけではなく、それを他の誰か、就中、自分の子供が感じたことがどんなものなのか、どんな会話が繰り広げられるのか、自分の気づかなかったことがどれぐらいあるのか。
それ以上に、人生を進んでいく中で感じることや発見することの彩りの多さに、憧れを抱かずにはいられなかった。
でもきっと、それはそれは、自分一人で生きている今より、大変なことや悲しいことや苦しいことの方が多いんだろうけど、その分、人生の豊かさは増えるんだろうな。一緒にいる人と感情を分け合うことの大切さとか、知らなかったことがたくさんあるんだろうな。
エッセイ読んだだけでこんなにたくさん考えさせられるなんて、本当にすごい。やっぱり好きな作家さんだなぁ。
わたしもいつか、何気ない日常を豊かに彩れる言葉を紡げるようになりたいな。