日々の暮らしのこと-mico

いろんなことを感じます。そのまま文字にします。

不思議。

 

きちんと薬を飲んでいるせいか、PMSの暴走はあまりない。

朝も晩も、起きていられないほどの倦怠感と眠気を除けば、まま良い方。

 

もうこうなると、飲んでいる薬は当分手放せないなぁ。

簡単に手に入るものだけど、安い買い物ではない。

それを定期的に買い続けなければならない出費と考えると、少し頭も痛い。

 

それでも罪の心当たりのない人たちに、意味不明言語で当たり散らすよりマシ。

自分のことを傷つけるよりマシ。

毎日生きている意味を問い続ける日々を送るよりマシ。

 

そう考えていくと、不思議と安いもんだと思えてくる。

この不調だって、私が将来望んでいる、自分の子供に会うためのものだと考えれば、全否定も出来ない。だから、完全になくなってほしいと願うのも、気が引けるというか。

 

自分の体ながら、女体って不思議だらけよなぁ。

体と心が繋がっているから、余計にそう思う。

こんな複雑な作りをした『人間』をお腹の中で育てるんやから。

そしてその伏線の一つが、今に至るまで私を悩ませているPMSとなって表れている。

上手くできているなぁとも思うし、自分の体のことなのに、何か別次元のものを見る感覚にもなる。

 

でもきっと、いざその時(赤ちゃんを宿して産むとき)になると、あら不思議、自然の摂理として体も心も受け入れてそれらが行われるのだろうなという感じもする。

 

普段使わないけど、『神秘的』っていう言葉しっくりくるような気がする。

 

 

 

 

 

 

やる気が起きた。

 

嬉しいことが一つ。

お給料がいつもより少し多かった。

単純に嬉しい。

いえーい。

 

おかげで貯金のモチベーションが上がりました。

今日からまた、食費をベースに節約生活を再開したいと思います。

(GWはどうしたって、お金が飛んでいく)

 

まず目下の目標は、冷蔵庫や食料庫の中身をきちんと使い切る。

そして使い切ってから買い物へ行く。

そうすれば食費は嵩まない。

 

食費の感覚的予算は、週1000円。

無理があると思われがちですが、あくまでも感覚的な予算の話です。

1円単位まで1000円以内で収めようというのではなく、そのぐらいの目標を持って、スーパーでの買い物をすると、1ヶ月の食費に使う金額が格段にちがうのです。

お菓子やらアイスやら、このぐらいいいやろと、ついついカゴに投げ入れがち。でもそれって実はチリツモで、めちゃくちゃ家計を逼迫する要因の一つになっているんですよねぇ。

 

そしてお昼は弁当持参!

弁当箱に詰められずとも、とにかく腹に溜まるものを持っていく!

どうしても美味しいものが食べたくなった時のみ、既製品に頼る。(無理はしない)

 

目標金額を必ず達成するために、地道に頑張る。

 

 

 

 

素直に笑えたのよ。

 

相手に期待しない。

それだけで、とってもラクに生きられるようになった。

 

例えば恋人。

自分が言ったことに対して、答えて欲しい言葉があるとする。

でも相手は他人だから、思うようにいかない。

理想とする答えを答えてくれない。

その時に私は、

『私のことどう思っているんだろう?』

『どうでもいいのかな?』

と、いろんなものを飛び越えて、疑心暗鬼になる。

でもやっぱり何度試しても同じで、求めたものは手に入らない。

そうすると人は絶望するようになるんだね。

そりゃ過呼吸にもなる。

 

友人関係でも同じようなことが起こっていた。

相手の出方を見て、初めて自分がどう振る舞おうか考える。

自分という人間が、常に他人ありきのロボットみたいだった。

でも無意識だから分からない。

そして、どうしてこんなに苦しいのかも分からなかった。

 

だけど、かつて彼とのやり取りで、ついに、疲れ果てた時があった。

それはつまり、自分が求めても求めても、望む形で愛情をもらえなくて、お互いに好きなはずなのに、どうしてこんなにもすれ違って私は神経をすり減らさなきゃいけないのと、心底思った時があったからなんだけど。

求めても求めても欲しいものを貰えないことに、本っ当に、疲れ果てた。

 

そして、求めるのをやめた。

私のことを好いて欲しくて我慢していたけど、もう私は私でいようと思えた。

 

無理に楽しそうにするのをやめたし、話題が楽しくなければそのまんまの反応をしたし、無言に罪悪感を感じることも無くなった。

相手の話題に対して、およそ可愛くないことばかりを言うようにもなった。だってそれが私の感じたことだもの。

 

そうしたら、素直に笑えるようにもなった。

ずっと私がなりたかった自分だ。

精神衛生が格段に良くなったと断言できる。

 

日記を書いていて、ふと昔のそのことに気づいてここに留めている。

一歩ずつ前進してるなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

考える力。

 

友人Eとランチをしてきた。

そこで話題に上がったのが、共通の友人の話。

 

Eは以前、その友人とのLINEのやりとりで気まずい雰囲気になったと言った。

どんなやりとりだったのか聞くと、いつもなら同意してくれるはずの話題に対して、思いがけず反論をくらったという。

 

Eが臨場感たっぷりに話すものだから、私はてっきり電話での話かと思っていたけどLINEでのやりとり。

さらにEの口ぶりから、かなり怒られた、というニュアンスが伝わってきたので、最初に聞いた時は私もかなり驚き、あの友人がその話題でそんなに怒るなんて何事!?と思った。

・・のだけど、少し考えて、どんなやりとりだったのか詳細に聞いてみると、大して怒っていたり、咎めるようなことを言われているわけではないことがわかった。

そりゃ、明らかに「怒りマーク」とか全く絵文字なしのメッセージだったらそうかもしれないなと思うけど、そうではなく、あくまでも言葉として同意をせず、自分の考えを伝えているというもの。

 

この時私は、なんでも自分で考えてみるって大事だなと思った。

Eの話は臨場感たっぷりな分、相手にEが感じたそのままの印象を抱かせてしまう。

だけど、物事の感じ方なんて、100人いたら100通りあるわけで、同じとは限らない。

今回のことで言うと、そのLINEのやりとりなら、私なら別に怒っているわけではないと感じるだろうと思ったし、本当に滅多なことで怒るような人ではないのだ。

 

Eの話し方が悪いというわけでは断じてない。

そこがEのすごくいいところであるし、大好きだ。尊敬もしてる。

そうやって話してくれることを、私自身がきちんと、自分で考えて感じ取って、話を鵜呑みにせず、本当の意味で解釈してあげられているかという問題だと思う。

 

そこで1つ、今回のことで反省していることがある。

そうやって考えて解釈して「自分はこう感じた」ということを、無闇に相手に伝える必要はないということだ。

それは心に留めるのがいいと思った。

だって、Eは友人に怒られた・嫌われてないか、そういう心配もあるからこそ、私に話をしてくれたのだ。

なのに、それを私の解釈で一掃するなんて、かわいそうなことをしたなと思った。

もっとそのやり取りでどう感じたのかをじっくりと聞いてあげるべきだった。

反省です。

 

少しずつこうして、考える力を養えている実感があって、とても嬉しい。

特に何をしているわけでもないけど。

一歩ずつ努力して、自分の心の声をちゃんと聞いてあげられる人になりたいと思う。

 

 

 

 

 

興味津々なこと。

 

北欧の国に憧れている。

それはもう強烈に猛烈に。

 

一度も海外を旅したことのない私にとっては、特にキラキラ光って見えます。

今一番行きたい国々です。

 

ただやはり、上流階級の人が行くところというイメージは払拭できない。

物価は高いし、高級志向だし。

韓国や台湾みたいに格安に魅力を求めて、ひたすら食い倒れだのブランド安く買えるだの謳っているガヤガヤしたツアーとは一線を画すよね。

でももはや、そういうことも含めて、私は北欧に惹かれているんだけど。

せめて、お金のあるうちに、一度くらい旅行で訪れてみたい。

 

という夢を抱きつつ、今はまだ旅行に行ける雰囲気でもないので、もっぱらネットで情報収集に明け暮れています。

そしたら、『北欧フィーカ』という個人サイトを見つけた。

もうそのサイトを眺めているだけで、何時間もうっとりできる。

製作者が10年にわたって北欧4カ国を旅した記録が載ってるみたい。

写真の風景がまた素晴らしいの。

美味しそうなパンやおしゃれで毎日が楽しくなりそうな北欧家具の写真なんかも。

 

見ているだけで、その国々の生活のスピード感とか、雰囲気とか、伝わってくる気がする。

きっと、生まれてずっと30数年来、せかせかした古い文化に浸りきりの私なんかは、衝撃を受けるんでしょうね。

 

『フィーカ』という言葉好き。

北欧では午前や午後にお茶とお菓子で休憩をするんだけど、その名前。

結構日本でも知ってる人増えてきてますよね?

休憩至上主義の私にとって笑、最&高な文化じゃないですか!!と感動。

というより、それが国の文化に根付いているということが素敵だなと思って。

もうそれだけで日常の足取りがゆっくりなのがわかるような気がする。

職場でも家でもどこでもあるこの文化。涙が出るほど素敵だと思ってしまう。

 

YouTubeでも、専ら北欧系の動画を観漁ってます。

よく観るのは、おそらく若いご夫婦だと思われる方たちのもの。

日本人夫婦のもあれば、旦那さまが北欧の方だったりもする。

撮影者が話すことはほとんどなくて、ほとんどが北欧の原風景だったり、街並みの音だったりします。

癒しを求めている時に、ゆっくり観ております。

 

あとは、『北欧、暮らしの道具店』で、憧れの北欧食器や雑貨を吟味する日々。

ここのオンラインショップやコラムやエッセイも、ずっっっっっっっっと見ていられるほど好き!!

毎日の癒しをいただいています。

 

いつか、北欧に関わる人生を送りたいなぁ。

来世かもしれないけど、今世でその因を積んどこうと思う、今日この頃なのでした。

 

 

 

 

 

 

自分を守る。

 

お願いしたことを忘れられていた。

私は、『お願いしておいたあの件ですが』とは言ってない。

だから思い出すこともないのだろうけど、お願いしたのは、昨日だ。

昨日のことを綺麗さっぱり忘れるだろうか。

しかもメモ書きにまでして渡したことを。

 

忘れてしまっているので、「確認されましたか?」と聞くと、少し気を悪くされたようだった。忙しい時に声をかけたのだろうか。

怖くて何も言えず、「あ、そうですよね。見てないですよね。ありがとうございました」としか返せなかった。

私、チキンですか?

 

仕事なんだから、”はっきり言ってやればいいじゃないか” ”ちゃんと聞くべきだ”と言われる方もいらっしゃると思いますが。。

 

それは無理。怖いの。

自尊心が傷付けられて、何を言われるのかと思うと。

 

そういう人からは、自分でちょうどいい距離を置くと決めております。

相手の機嫌が良かろうと、こちらは一定距離を保ち、近づかない。

それが怪我をしないコツなのです。

 

こうやって、ちょっとずつ起こる人間関係のモヤモヤの対策を自分の中で決めていくと、引きずらずに切り替えられやすいような気がする。

 

自分のことを守りつつ、仕事も充実させていくことを大事にしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

小銭を握りしめた思い出。

 

母の日の切ない思い出がある。

 

まだ小学生だった時、母の日のプレゼントにお花を買ってあげようと思いついた。

 

手元には小学生の私としては大金に感じられた500円とちょっとの小銭。

ワクワクしながら家から少し離れたホームセンターのお花コーナーへ向かった。

 

母の日といえば、カーネーションでしょ!と、意気揚々と馳せ参じた。

私の頭の中でプレゼント像は大きく膨れていた。

植木鉢か花束を持った母が喜んでくれているイメージ。

その花はカーネーションでなければいけなかったし、たくさんの満開の花が密度高くひしめき合っていないといけなかった。

早く母にプレゼントしたくて、母が喜んでくれているのを見たくて、ホームセンターに到着した私は、そこにある現実にそのイメージを打ち壊されてしまった。

 

値段が想像していたよりも高かったのだ。

カーネーションは高かった。それならばと母が喜びそうという基準で他の花も見ていったけど、私が欲しいと思う花は、到底、自分の持っている小銭だけでは買えるものではなかった。

有り金を全部はたいて買えるのは、せいぜいカーネーション1本ほどのもので、他はどれもパッとしなかったり、葉ばかりでお花はほとんどついていないようなものだった。。

 

私は、とても悲しくなった。

探しても探してもそこにあるのは、自分では買えないような豪華な花か、母の笑顔がこれで引き出せるだろうかという貧相な鉢植えばかり。

小1時間ほど、同じ場所に留まり、何度も必死に探し回ったけど、理想とするものには出会えなかった。

仕方なく諦めて、とぼとぼと帰路に着くことにしたのだ。

 

その時の私にとって、母の笑顔を生み出せるということが、どれほどのことだったか。だから今でも、その時の失望感はありありと思いだせる。

帰って、お花を見せて、母の日のプレゼントだよ!と差し出すことが出来ないという現実が悲しくて悲しくて。

 

だけど当時、私はそのことを母には言わなかったみたい。

最近になって、実はそんなことがあったんだよと伝えてみると、とても驚いてた。

 

照れてあまり表には出さないけど、いつも私のことを心配してくれている母。

もう私は、小銭を握りしめてホームセンターへ走る、小さな少女ではない。

泣きべそもかかないし、そんなことで絶望もしない。

今年は母の日に、思いっきり喜ぶものを送ってあげよう。