小銭を握りしめた思い出。
母の日の切ない思い出がある。
まだ小学生だった時、母の日のプレゼントにお花を買ってあげようと思いついた。
手元には小学生の私としては大金に感じられた500円とちょっとの小銭。
ワクワクしながら家から少し離れたホームセンターのお花コーナーへ向かった。
母の日といえば、カーネーションでしょ!と、意気揚々と馳せ参じた。
私の頭の中でプレゼント像は大きく膨れていた。
植木鉢か花束を持った母が喜んでくれているイメージ。
その花はカーネーションでなければいけなかったし、たくさんの満開の花が密度高くひしめき合っていないといけなかった。
早く母にプレゼントしたくて、母が喜んでくれているのを見たくて、ホームセンターに到着した私は、そこにある現実にそのイメージを打ち壊されてしまった。
値段が想像していたよりも高かったのだ。
カーネーションは高かった。それならばと母が喜びそうという基準で他の花も見ていったけど、私が欲しいと思う花は、到底、自分の持っている小銭だけでは買えるものではなかった。
有り金を全部はたいて買えるのは、せいぜいカーネーション1本ほどのもので、他はどれもパッとしなかったり、葉ばかりでお花はほとんどついていないようなものだった。。
私は、とても悲しくなった。
探しても探してもそこにあるのは、自分では買えないような豪華な花か、母の笑顔がこれで引き出せるだろうかという貧相な鉢植えばかり。
小1時間ほど、同じ場所に留まり、何度も必死に探し回ったけど、理想とするものには出会えなかった。
仕方なく諦めて、とぼとぼと帰路に着くことにしたのだ。
その時の私にとって、母の笑顔を生み出せるということが、どれほどのことだったか。だから今でも、その時の失望感はありありと思いだせる。
帰って、お花を見せて、母の日のプレゼントだよ!と差し出すことが出来ないという現実が悲しくて悲しくて。
だけど当時、私はそのことを母には言わなかったみたい。
最近になって、実はそんなことがあったんだよと伝えてみると、とても驚いてた。
照れてあまり表には出さないけど、いつも私のことを心配してくれている母。
もう私は、小銭を握りしめてホームセンターへ走る、小さな少女ではない。
泣きべそもかかないし、そんなことで絶望もしない。
今年は母の日に、思いっきり喜ぶものを送ってあげよう。