日々の暮らしのこと-mico

いろんなことを感じます。そのまま文字にします。

愛着障害への挑戦。

 

先週末、実家に帰って、両親に今までの生きづらさの原因を話した。

それが両親と自分との間にある壁みたいなものだということを。

 

小さい頃から父と母の機嫌を伺って振る舞ってきた。

何を言っても相手にしてもらえず、安易に発言すればただうるさいと怒られた。

そんな日々を送るうちに、ごくごく自然に『親に気に入られて褒められる自分』を作って過ごしていくようになる。

要するに、「親の気を引きたかった」のだ。

 

下に出来が良くて愛嬌のある兄弟がいたのも影響している。

でも彼らのせいではないし、憎んでいるわけでもない。

両親のことも、大好きだ。

 

けれど小さい頃に、そうしないと自分の安心感が得られない!と本能的に身の危険(心の不安定さともいうだろうか)を察知した私は、ほとんど無意識にどうやったら親の耳に心地の良い言葉が出るか、どうしたら親に褒めてもらえるか、どうしたら私のことを見てくれるのか、ということばかりを考えて生きていくようになった。

 

そして、何が起こったか。簡単にいうと、その結果、無理が生じた。

 

学校生活ではそんな自分はどうしても優等生となり、みんなから頼られることの快感を得てしまったがために、無理して作り上げた虚栄の自分のまんまで居心地のいい立場を手に入れてしまったのだ。なんの苦労もせず。

高校生ぐらいまではリーダーでいることは苦ではなかった。

周りはみんな、そんなめんどくさいこと誰かやってくれと思っている人間の集まりだ。だから、私にリーダーの器があろうがなかろうが関係なくその立場に安住することができた。

 

問題は大学生以降だった。

私の行っていた大学は、すごい人の集合体だった。実際に多くの人を統率する能力に長けている人、その経験がある人たちで溢れかえっていて、みんなものすごく魅力的だった。自分なんかミジンコ以下の実力しか持っていなかった。

何より、それに匹敵するだけの人生経験が、私にはなかった。

そりゃそうだ。だって、物心ついてから自分を偽って生きてきたんだから。

 

というわけで、大学以降、ほんの少しの矛盾を抱えながら社会人となり、10年以上を過ごしている。そしてその過程の中でようやくそのズレのようなものを修正しようと思えた。

 

無理が生じているなと思ったキッカケは一つじゃない。

なんなら大学に入って矛盾を感じ始めてからは、いくつものキッカケがあったと思う。

ここ最近でいえば、実戦の場に弱いと自覚したことだろうか。頭で考えることや時間をかけて答えを出すことは得意だし、誰にでもできるといえばできる。

だけど、臨機応変に対応しなければいけない場面ではめっぽう弱い、、というかその場面で100%対応できないと言い切ってもいい。

 

そういうことの一つ一つが、まさに、「自信の無い人が虚栄を張るとき」の行動そのものだったりしたから、また心底ショックだった。自分、ダサ!!と思った。

周りからしてみれば、とっくにそのダサさに気がついていただろうに、自分だけはなんとかやれていると思っていたのだ。

うん、死ぬほどダサい。

 

というわけで、ここいらで、盛大にズレた人生の軌道修正をしようと、覚悟を決めたわけです。

これには勇気がいった。

 

もう周りの人に、すごい人と思われない自分で振る舞う必要があった。

だけど、すごいと言わせる技術だけは、プロ級に染み付いてしまっていたみたいで、なかなか取れない。これはしぶとい。今もまだ格闘中だ。

けれど、それでいいと思っている。このしぶとさと格闘せずして、軌道修正はできない。

 

後輩にも、もう一切偉そうに講釈を垂れない。どこまでも私の方が学ばせてもらうという心で、接するんだ。たまに謙りすぎて「自分キモっ!!」って思うけど。

 

そして、両親に対しては、これまでできなかった自分の気持ちを包み隠さず聞いてもらう努力をする。それでも時々は聞いてもらえてないけど、これから少しずつ変わって行けたらいいなと思ってる。両親が高齢でも元気でいてくれたのは、この軌道修正という試練がまだ終わっていなかったからなのかなと、感謝の気持ちでいっぱいになった。

 

どこまでも泥臭く、ありのままの自分で、自分が伸び伸びと気持ちよく過ごしていけるように、この生活を続ける。

ありのままの自分を曝け出せるように、くせをつけていこう。